GOZENSAMAcom 

御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

東京青山 NHK文化センターで御前様のお話を聞く会

東京青山 NHK文化センターで御前様のお話を聞く会

 

この度、御前様 岡本永司貫首が4月より月に一度、3回に亘り、NHK文化センターにて法話を講演される運びとなりました。

つきましては、皆様にお申し込み頂きたくここにお誘い申し上げます。

日曜のあさ9時に参加いただけなかった方、今回はいずれも第四木曜日の15時30分からの開始となります。

お寺の本堂のなかで聞く法話とはすこし趣の違った東京青山のお教室で、みなさまとゆったりとしたお時間が共有できたらと思っています。


会場の東京青山 NHK文化センターは、東京メトロ青山一丁目駅直結「新青山ビル」西館4階から6階にあります。


お申込み:護国寺御前様ご法話事務局

                        090-1200-5592(担当:伊澤元祐)

                

場所:NHK文化センター

場所:東京都港区南青山1-1-10334751151

   地下鉄「青山一丁目駅」徒歩1分 (銀座線、半蔵門線、大江戸線)

日時:4月25日(木) 5月23日(木)6月27日(木)

   時間はいずれも15時30分~17時00分 

法話の題目 ①第一回目 4月「仏教は至言の森」
            ②第二回目 5月 「経典に潜む健康法」

      第三回目 6月 「生きる力の再発見」

費用: 一回3000円(税別)×3回=計9,450円(一回のみの聴聞も可)

 

講演の後半で質疑応答がございます。

日頃抱かれている仏法への疑問などを事前に事務局へお寄せ下さい。

 

 NHK文化センター会員になるとさらなる特典が!

 【青山教室ならではの会員サービス】

・新青山ビル西館2階の「流水書房」で、NHK文化センターの会員証をご提示いただくと、NHK出版発行の本が1割引でお買い求めいただけます。

・新青山ビル地下1階の一部飲食店で「NHK文化センターの会員様用10%割引パスポートをご利用いただけます(パスポートは青山教室窓口で配布)。

 

 

 

 

初心


 私たちはよく「初心にかえって」とか、「初心忘れるべからず」とか、自動車免許とりたての人は、初心者マークをつけて車の運転をしております。この初心というのは、未だ習い始めて不なれであり、未熟であるということと、物事を始めた時の純粋で、謙虚な気持、というように、二通りに使われたり、考えられたりしております。しかしこの二通りは、実は一つのことで、私たちが直面する凡てのことにあてはまることであります。そして初心とは、大切な仏教語でもあります。

即ち初発心(しょほっしん)のことで、発心(ほっしん)とは発菩提心(ほつぼだいしん)の略であります。
仏の教えを習い、実践して行こうと、初めて発した心ということであります。従って入りたてで、まことに未熟であるが、純粋で一生懸命に仏道を志す心が、初心の本来の意味になります。
この初心が一般に使われるようになったのは仏教に源を持つ能楽を大成された世阿弥がその能楽論書「花鏡」の中で「是非の初心忘るべからず時々の初心忘るべからず老後の初心忘るべからず」の句を残され、そこから初心の句が使われるようになったようであります。
世阿弥は、能を習いはじめた時の芸に対する心を忘れてはならぬと戒めたのですが、そこから何事に於ても最初の心持、真剣さ、そして目的を忘れてはならぬということになりました。私たちはややもすると初めの内は真剣に心をつくしますが、しばらくすると油断しがちであります。即ち初心忘れがちになり失敗することになりがちです。私たち仏教徒は、本来の初心の意味をしっかりと受止め菩提の心をおこし、仏道を歩んで参りたいと念じております。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「心 の 転 倒 予 防」


 倒・顚 (さかさにする、ころぶ、狼狽)

心の転倒の原因を仏教では罣礙(心を覆うもの、さまたげ、邪魔)と申しております。

 

 (悪い心の働き、妄想、心身をわずらい悩ます精神作用)

   

    (限りなきむさぼり、とらわれ、強い欲望)

    (はげしい怒り、強いねたみ、うらみ心)

    (おろかな心、妄念、正しい判断が出来ない心)

これ等が私達の心を汚し、時には心身を亡す毒素であると説かれております。

此の煩悩により心が転倒する四ヶ条を示して常楽我浄の四顚倒をあげております。

一、        いつまでもいつまでもと願う心、いつまでもつづくと願う心。

二、       楽しい人生でありたい、苦しみや不都合をいやがる心。

三、       常に自分中心で考え行動し、我を通さんとする心。

四、       自分は善であり、正しいとし非難されることはないと思う心。

これ等は考えてみると私達の理想とするところであり、その実現に向って絶えず頑張っているのが私達人間の日常の姿であると申せます。しかしこれ等は到底満すことの出来ないことであり、正に道理に反する心のつまずきの原因となっていて、三毒煩悩や四顚倒の心の働きに振り廻され様々な苦悩が生じて来ると仏典には説かれております。仏教経典はこの私達のわがままな心の転倒を防ぐ方法を一生懸命説いていると申しても過言ではありません。その一つとして少欲知足の生き方を示しております。遺教経に「少欲を行ずるものは心即ち坦然として憂畏なし」「若し諸々の苦悩を脱せんと欲せば常に知足を行すべし」とのべ限りない欲望にブレーキをかけ制御することで心の顚倒を防ぐ手立てとせよと説いております。

大本山護国寺貫首 岡本永司

面目 真面目


「面目」とは辞書を引くと世間に対するていさい。人に合わせる顔などと出ております。私たちは普段「面目を施す」「面目丸潰れ」「面目ない」などという言葉を耳にします。又漢音で「ボク」と読み呉音で「モク」と読み「真面目」などと使っております。

この面目とは大切な仏教語で、面とはおもてとか、つらというように私たちの顔のことであります。顔即ち面には、目、耳、鼻、口等大切な人間の感覚器官が集まっておることはご承知の通りであります。さらに目はその顔の中心にあって身心の窓口となっているところで、目を見ればその人の心や体の具合、状態が推測出来るといわれ「目は口ほどにものを言い」とあるように、何を考えているか見当がつきます。面目とはこの面と目を重ねたもので、私たちにとって一番大切なもの、つまり本性を指す語、で自分が本来持っている仏性のことであります。

これは大宇宙の生命の一つとして生きる私たちの真のありかたを指しております。この面目を正に真面目にいきることの重要なことを申しております。この真面目は辞書では本来の姿とか、真価、まじめと出ております。まじめとはこの真の面目にそって生きることでなくてはなりません。私たちは、自分の人生をふざけたりなまけたりしないで、まじめに過ごして参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

性善・性悪・無記


 昔から人間は本来善であるか悪であるかということが洋の東西を問わず考えられて参りました。即ち人間の性は善であるという性善説と、いや人間の本性は悪なのだという性悪説であります。ところで仏教ではこの人間の心、人間の生き方はじめ人生の行方についてどう考えているかと申せば善とか悪とかいうような決定したものはないのであると説いております。白紙状態であるとしこれを「無記」であるとしております。これを「無記性」と申します。このように人間の本性は始めから決まっているものではなく無自性であるという考えは大変大切なことであると申せます。なぜならば始めからどちらかに決まっているものであれば善に向って精進努力することも悪をいましめることも無意味なことになります。決まっていないからこそ自らの心をきたえ調べて人生を送る努力が求められることになるのであります。丁度水はそれを入れる器によって如何様にも変わります。私達の心即ち性も縁を得て変わる人々との関係或いは住む環境や風土によって変って行くことはご承知の通りであります。無記なるが故にどうとでもなる自性を仏のみ教えを頂いて豊かな美しいものに向ってつとめて参りたいものであります。大本山護国寺貫首 岡本永司

慈悲


 慈悲はサンスクリット語で「マイトリー・カルナー」と申します。「マイトリー」とは友情とか友誼ということでこれは特定の人にだけもつ友情ではなくて、凡ての人に平等に持つ友情、友誼ということであります。

「カルナー」は悲しむ、痛むという意味で悲は鳥の羽が動かないで苦しむ有様を示している文字であります。「非の心」の反対は「是の心」と考えられます。是の心とは常に自分を中心とし自分の行いや考えを是即ちよしとし他を責める心であり、非の心とは自分の在り方や考え自ら責めて謙虚に反省する心がまえといえます。

自分の至らぬところ、自らの欠点を認めること自分の非を知ることが出来ればいたずらに他を責めることは出来ません。互いに助け合い手をたずさえて精進して行くことが出来るようになるはずであります。

経に苦を抜くを慈といい、楽を与えるを悲とす。即ち抜苦与楽なりとありますが、自分の心に慈悲心の種を植え育てて参るようつとめて参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「妙・絶妙」


 

 「なんとも妙な話だ」とか「体操の選手が絶妙の演技を見せた」とか不断に使っている妙という言葉ですが、妙とは何でしょうか。

妙のつく仏教語はたくさんあります。妙音・妙見・妙典・妙法・妙高山など数えればきりがありません。妙とは「較べるものが無い程すぐれている」とか「頭で思いはかることが無い程出来ない程すばらしい」ということを表現する形容詞で、妙えなる教である仏教を妙経などと申します。
しかしこの妙すら言い足りないほどすばらしかったらどう表現しますか。そうです前述の絶妙といいます。「妙を喚んで絶となす。絶はこれ妙の異名なり」と法華玄義にあるように絶妙とは同義語を二つ重ねることによって意味をぐんと強める言葉になります。帰るといわずに帰還と言ったり、衣と服を重ねて衣服というようなものであります。絶は絶対ということで相対の反対語で比較することが無いという点で妙と同義語になります。

しかし今は「あの人は妙な人だ」前述の「妙な話だ」という時は比較するもののない程すぐれたという意味ではなく、普通でない、変ってるという悪い方に使われるようになってしまいました。本来誉めことばであったものが悪い使われ方になったのは沢山あります。貴様、無学、無分別などなどであり、注意したいものであります。言葉本来の尊さ美しさを使いつづけたいとおもいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

怒らず 恚らず



「売り言葉に買い言葉」という言葉があります。相手から受けた暴言に対し、こちらも同じような暴言をはいて言い返しついには喧嘩になってしまいます。
いずれにしても同じレベルで言い合い、言い返していて、互いの立場、互いの意地がぶつかり合い硬直状態におちいってしまいます。
こうしたかたくなな心は一朝一夕には、ほぐれずいつまでも私達の心を悩ませます。

「水よく石をうがつ」という言葉がありますが、一滴一滴たえまなく水が落ちてついには固い石にも穴をあけるようになる意味であります。
私達の心はともすると自分は正しい、自分は間違っていないと思い込む自分への執着心があり、それが硬直しがちであります。
執着心を捨てろと言われてもそう簡単に捨て切れないのが本心であります。
そうした時に毎日毎日少しずつでも仏の教えを思い起こし、かみしめ実行して行くことで次第にものの考え方、思い込みも変り相手をゆるす心が生れて参ります。つまり大きな包容力が育ち豊かな心になって参ります。

大きな心とは決して鈍感になるということではなく硬直し、固まった心を次第にほぐし、柔軟な心、やわらかく物事に処する心が生まれ、一日一日が新たな喜びをもって迎えられるようになることであります。仏教学の大家金子大栄先生は「人生はやり直すことは出来ないが見直すことは出来る」と申しておられます。人や物に対するに同じレベル同じ立場で処するのではなく別の角度、違った立場で見直す柔軟な心を育てて参りたいものであります。
 大本山護国寺貫首 岡本永司


仏教日常語


 

道 楽

 仏道修行によって得られたさとりのたのしみをいいます。阿育王経巻八に「今己得道楽」とあり、又法華経にも「道を以て楽を受け」とあるように法悦の境界をいうのである。現在の日常語で使われている意味とは大変かけはなれてしまっております。「道楽息子」 「食道楽」 「道楽者」

 

娯 楽

本来は増一阿含経に「迷あり、娯楽を以て断ずることを得」とあるように本来は精神的な安らかさと楽しさを覚えることでありました。それが次第に音楽、歌舞、演劇を自ら演じたり見たり聞いたりする楽しみに変わってきました。原始仏教教団ではこれ等は一切許されなかったが大乗仏教に至り大衆に普及する為に仏塔礼拝の折など音楽歌舞が行われました。

 

安 楽

仏の世界の楽しさ心安らかで苦学の無いことをいうが、本来は阿弥陀如来の在す極楽の別名で経に「其の佛の世界を明けて安楽と云ふ」とあり安穏快楽なるさとりの世界をいいます。
 
大本山護国寺貫首 岡本永司

「秘 密」


内証話しとか秘密の話しとか私達は普通に使っており、内容は同じように考えられております。しかしいずれも違う意味を現す大切な仏教語であります。

内証とは自分の心の内のたしかなさとりのことであり、秘密とは我々凡人には理解出来ない程深遠な教えのことであり、又仏教がわざと明にせず、隠された意味を持って私達衆生を導き、教えを説かれることを申します。

弘法大師は真言密教の教学を深く研究され、この秘密を二種類に分類されました。一つは衆生秘密で他は如来秘密であります。衆生秘密とは私達は本来仏心(仏性)を持っているけれども煩悩に犯され妄想がさかんであってその雲に覆われており大切な仏心が隠されてしまっている状態であることをさしております。この仏心が表面に現れることが弘法大師が説かれる即身成仏であります。

如来秘密とは仏様が私達を導き、教えをほどこされるに際して、私達の機根(能力)理解力がまだ充分ではないとして秘密にしておられることであります。例えば中学校では三から四は引けるとしてマイナスの数学を教えますが、小学校では三から四は引けないと教えます。これは先生が生徒の理解力を計っておるのであり、決して意地悪で秘密にしているのではありません。

この様に仏様はいろいろな手段(方便)を考えて私達を導かれるので時として相手に他の人と逆のことを説いたり敢て教えなかったりされます。この様に仏の秘密は程度の高いものでありますが、我々人間の考える秘密は企業秘密とか軍事秘密とか自己自国の利益優先の秘密ばかりであり、如来秘密は衆生を正しく救うために説いたり説かなかったりする高度なものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

  • ライブドアブログ