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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

「冷暖(煖)自知」(れいだんじち)

水が温かいか冷たいかは自分が自らに飲んでみたり、手を入れたりすることによってはじめて感得することが出来るように、「おさとり」とはどんなものかは自分で実際に実践してはじめて会得し、知ることが出来るものであります。

これを「冷暖自知」という仏教語で表現しております。
「おさとりはすばらしいもの」だとか、「こうしておさとりを得た」とか、その他「おさとり」に関する事は仏典の各処に書かれておりますが、それは悟りのことを「
内証」(ないしょう)と申すように、「内証」(ないしょ)にしておくもので他人にいくら説明しても、その真実を伝えることは出来ません。

人間には他人にいくら頼んでも力になってもらえない事が沢山あります。
例えば他人に食べてもらっても自分の腹がふくれるわけでなく、人にいくら勉強してもらっても自分の頭がよくなるわけではありません。悟った人の話を聞くだけでは自分が悟れるわけではありません。

遺教経」(ゆいきょうぎょう)に「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服は医の咎(とが)にあらず」とあるようにお釈迦様の教えを自ら実践してはじめて真理を知るものであります。

大本山護国寺 貫
首 岡本永司

「大乗仏教と小乗仏教」


大乗仏教と小乗仏教

 仏教の大きな流れの中で大乗仏教と小乗仏教という二つの考え方があります。よく皆様が「この際大乗的見地に立って」とか「大乗の精神で」などと使われます。この二つの流れについてお話を申し上げます。


大乗とは字の如く大きな乗物ということで梵語マハナヤの訳語であります。お釈迦様がおさとりを開かれて仏教をお説きになった時、まず自分が修行を重ねてさとりを得ることを最も重要とされました。その為に修行の方法や、様々な戒律を設けてきびしく自己規制をされました。釈迦滅後も弟子達はその教えをかたく守って修行をつづけたのであります。つまり自分だけのさとりへの追究をして行こうという流れであり、これを小乗仏教(ヒナヤナ)と称するようになりました。

しかし時代を経るにつれて、自分だけのさとりにとらわれることなく、もっと大勢の人達がさとりを聞き安心を得べきであるとの考えが強くおきて参りました。これが大乗仏教の流れであります。例えば目的地に到着するのに自転車では一人しか来れません。バスや電車では一返に大勢の人が目的地に行けます。この考え方がヒマラヤを越えて中国、朝鮮、日本に伝来されました。これを北伝仏教と申します。一方お釈迦様の定められた規律をしっかりそのまま守って行く考えがビルマ、タイ、カンボジア等に伝わりこれを南伝仏教と申しております。

この大乗仏教は前述のようにたくさんの人々をさとりに導かんとする教えであり、しかも「己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さん」とする菩薩の行願を持つ教えであります。このことから自己の立場を捨て大局的にものを考えようとすることから大乗的見地というようになり、小さなことにこだわらず、大勢の人の安心を考えようとする行き方であり、自分のことで精一杯というのが小乗ということになります。

唯し大乗仏教がすぐれていて、小乗仏教は劣っているなどという考えは大変間違った考えであって自己の完成を第一に目指すことも、大勢の人々の安心を目指して精進することも共にお釈迦様の大切な教えであることには変りありません。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「志願・念願」




「志 願・念 願」

 

 新年になると多くの人々が神社や仏閣に参拝して一年の無事、家族の息災などさまざまな願いをし、その成就を念ぜられます。勿論それ等は人情として当然のことであり決してせめられることではありません。しかしそれだけで止っていては本当の願いにはなりません。願いとは求めることを定め、それを得ようとすることを指しますが、本来の願いは仏菩薩の発された尊い願いであります。阿弥陀如来の四十八願や薬師如来の十二上願をはじめ仏様は私たち衆生の迷ったり苦しんだりしている様子を見て何とかしてその苦難を救うべく願いを立てられました。そのような心の底から志を立て切に願うことを志願と申しております。この志願は、戦争の志願兵とか、入学志願者などと俗に使われていますが抜苦与楽の仏の悲願と同じく大変奥の深い意味を持っておるのであります。法華経に「我等如来の知見を志願す」とあるように、願わくは仏様のような智慧を得たいという願いを申しております。そしてこの思いを常に心に持ちその実現を願うことを念願と申します。よく「念願がかなって合格したい」などと使われますが、この念願も仏様の念願のような立派なものでありたいものであります。少しでも苦しみ悩む者を救わんとする願いを持ち、仏様に願いをかけ念願しその成就に向って精進することで仏天の加護を得て満願の日を迎えることが出来、その願いのかなうことを満願と言い、その行の最終日を結願と申します。経の最後に願くは此の功徳を以って一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことをとなえますが、それが私たちの志願であり、念願であります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

大般若会

仁王会(にんのうえ)

平成24年1月1日 修正会

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

http://www.youtube.com/watch?v=Ca0N4DCh8FQ

「忍 土」


「忍 土」 

 

 お釈迦さまは私たちの住む此の世(娑婆世界)は自分の思うようにならないこと、願うようにならないことが多く苦しみに満ちているとして仏教の大切な教えの一つとして「一切皆苦」と申されました。

二千五百年前の時代も現代もこの真理、この有様は全く変わりません。否むしろ現代のように科学技術が発展し人間生活が複雑化していくにつれてこの苦は根本的な苦をもたらす生・老・病・死の四苦を含めて更に深く広がって来ているように思われます。このように私たちが生きて行く上で様々な苦難や困難、悲しみを受けて行く定めであるとする此の世を仏教では忍土と申しております。

限り無い苦難に打ちひしがれることがなく、それに耐え忍ばざるを得ないのが人の世の定めであるとしっかりと悟ることで覚悟が出来、一切の苦を乗り越えて行く力が養われるのであることを教えておられるのであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

すす払い


今日は修養会と奉鐘会それと日曜会のみなさんで年末の大掃除とすす払いを行いました。お堂と境内がすっかりきれいになったところでちょっと早めのお食事をいただきました。
毎年すす払いのあとのお食事は本坊できちんとお作法とおりにお粥をいただきます。みなさんどうもありがとう。
また来年もよろしくお願いします。


「すす払い」

おしゃかさまがおさとりをひらいた日

12月8日は成道会です。

八部衆



「八 部 衆

 

 インド神話に出て来る神々の中で仏教に採り入れられ、仏法守護となった八種の神々である。

 

一、天 インド神話の総称。天は梵天、帝釈天のように鬼神の中でも最も果報の部類に属している。

 

二、竜 水中に住み、雨を呼んで大地に豊穣をもたらす神、蛇を神格化した像、中国、朝鮮、日本では霊獣で想像上の動物、仏教では竜王として仏法守護の神となる。

 

三、夜叉 梵名ヤクシャの音写、捷疾鬼とも呼ばれている。インド神話の中で人を害する暴悪の鬼だが、仏教に採り入れられ毘沙門天の家来となり、仏法守護の鬼神となる。

 

四、乾闥婆 梵名ガンダルヴァの音写で尋香、食香などと漢訳されている。インド神話で香を食べる妖精で音楽の神で、仏教に採り入れられ、胎児、小児の守護神となり帝釈天に仕える、獅子冠をつけているのが特徴である

 

五、阿修羅 梵名アスラの音写で、非天、不端天とも訳される。修羅ともいう。インド神話で戦争を好む神で常に帝釈天と争っていた。仏様に入り守護神となる。

 

六、迦楼羅 梵名ガルダの音写でインド神話に出て来る大鳥で悪竜を常食する鳥の王で、仏教に採り入れられて梵天大自在天、文殊などの化身とされ仏法守護の神となった、金翅鳥と同一視されている。不動明王の火焔光背をカルラ焔というのはこの鳥が羽をひろげた形に似ているところから来ている。

 

七、緊那羅 梵名キンナーラの音写で馬頭人身の鬼で天上で音楽の神とされている。美しい声をもつ歌神、乾闥婆と並んで音楽神として八部衆となる。

 

八、摩睺羅伽 梵名マホラガの音写で大蛇を意味する無足で地をはう竜といい、体は人、首蛇の姿で音楽の神として仏法守護の神となる。
 
 大本山護国寺貫首 岡本永司

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