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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

依怙贔屓

「依 怙 贔 屓」(えこひいき)

 よく一般に依怙贔屓などという言葉が使われます。辞典によると一方的にばかりひいきするとあり贔屓は特に気に入って目をかけ、ひきたてるなどとあり人を差別するようなあま­り感心した言葉ではありません。

 しかしこの依怙というのは大事な仏教語であります。依とは「よるべ」「よりどころ」怙とは「たのみとする」「ささえとする」ということで、
­子供が親を心だのみにし、生徒が教師を心のよりどころとするような関係を申しております。

 仏典の中に人生の荒波にもまれてたよるすべのない衆生に対し仏様が私達の依怙にな
­るということが記されております。観音経の中に「観世音浄聖於苦悩死厄能為作依怙」とあるように私達が苦しみ悩んでいる時や、病気や死に直面して不安にさいなまれておる時­、観音様は私達の依怙になって下さることを誓っておられます。

 仏様は人間のように依怙贔屓をなさいませんので、私達は安心して仏様によりそいたのみにすることが出来ます。
­又仏様ばかりではなく高徳の祖師の方々も皆私達の依怙となって下さっております。

 道元禅師は中国の正覚大師慧可禅師を「まことにこれ人天の大依怙なり人天の大導師なり」と
­敬っておられますが、道元禅師も弘法大師、伝教大師等の方々も日本人の大依怙になられました。私達も修行を重ねて出来れば人の依怙になりたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

如意輪さまはよろこんでいらっしゃいます!

2007年の懐かしい映像をお楽しみ下さい。

「無邪気・可愛い」


無邪気・可愛い

 「子供は無邪気でかわいい」などと無邪気の代表が幼い子供や赤ちゃんを表すように使われております。邪気とは煩悩による心のよごれを申しますので無邪気とはそうした貪瞋痴の三毒煩悩にけがされていない「きれいな心のまま」ということになります。特に赤ちゃんはいずれも無邪気そのものと言えます。

 つづいて「かわいい」とは漢字では可愛となり、文字通り愛すべきものを指しており、そこから子供ばかりでなく女性の容姿の美しいことを指すようにもなりました。この可愛を語幹として「可愛がる」という動詞が生れました。
 また可愛がるの反対語は「いじめる」ですが、時によってはそれが「可愛がってやる」などと使われることもあります。

 さて赤ちゃんは無邪気で可愛いものといわれますが、それが大人になると何故無邪気でなくなるのでしょうか。一般に弱いもの、幼いものは生きのびるために可愛がられるようになっておりますが、それが成長し生命力が盛んになって来ると無邪気でなくなるのでしょうか。
 しかしそれでは正に可愛そうと申すしかありません。成長し、生命力がつこうが心がすなおでよごれていなければ可愛い存在であると申せます。

 「みどり子の次第次第に智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」という古歌があります。大人になっても煩悩まで成長させないように気をつけて参りたいものであります。
 その人に出会うとほほえんでしまうような。そしてその人が来ると心なごむような人もたくさんいらっしゃいます。伝教大師は「一隅を照らす者これ国の宝なり」と申されております。凡てを心得てなお邪気を抑えるような努力をつづけて可愛がられるような日々を送りたいものであります。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「現世安穏・後世善処」



現世安穏・後世善処
 

 安穏と共に使われる言葉に善処があります。「現世安穏 後世善処」という句はよく知られている句ですが、これは妙法蓮華経の中の「諸々の衆生この法を聞き終って現世には安穏にして、後には善処に生ず」より出ております。
 現世とは勿論私達の住むこの世即ち娑婆世界のことで、善処とは善い行をつむことによって行くことの出来る善い処即ち仏国土、浄土のことであります。
 此のお経の教えを聞けば此の世では安穏な日々が送れ、死後は極楽浄土に行くことが出来るということになります。よく「あの世なんか信じられない、あるはずがない」などという人がおります。現代の科学思想や様々な知識を得た人にとってかかる考えになるのも無理のないことと思います。しかし本当に「あの世なんか無く、死んでしまえばおしまい」ということになると、今の自分はどうなるかという切なくうちひしがれた、荒れた心になってしまいます。私達は心の奥底にあの世を信じ先に逝った人々の冥福を祈り、自分もまたあの世に行くことを思って生きておるのであります。
 今日が終ればあの世に行くのであると自覚すれば、いたずらに死をおそれたり、切羽つまった気持ちで過す必要はありません。考えてみますと私達の一生は永遠のいのちの流れの中のほんのわずかな瞬間であると思います。そのような心の余裕をもって過して参りたいものであります。唯あの世に持込むのはこの世の善悪の業のみであることを心得て出来るならば善業を積み重ねて、そのご縁で後世善処に行けるように生きることが現世安穏への道であるといえます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「わが心は十界にある」

わが心は十界にある

 
 弘法大師は「唐招提寺の達
嚫の文」の中で「六大の所遍皆是れわが身なり、十界の所有竝に是れわが心なり」と記されております。これは「私たちの体は六大より構成されており、私たちの心には十界がある」という句です。
 即ち私たちの体は地・水・火・空・風の五大(要素)と心(意識)を加えて六つの要素からなり、十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道と仏の世界である声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖であります。私たちの心の変化はこの十種類にわたっていると申しておられるのであります。
 
 西洋のジキルとハイドではありませんが、人間の心は常にコロコロと移り変わって、神や仏のような心の時もあり、阿修羅のように鬼のような心の時もあり、餓鬼畜生にもまさるおそろしい心に住する時もあると申せます。慈悲心をもって養っていた里子をいじめ殺してしまった事件が最近報じられたり、我が子を自分の快楽のために飢死させてしまう親もおります。なんともやりきれない思いでいっぱいであります。
 京都大学の類人猿研究所の所長をされていた河合雅雄先生はオラウータンは人間よりすばらしいところがあると次のように言っておられます。「人間は自分と気の合った人がくると食物を分けて与えますが気の合わない人が来るとかくしてしまいます。オラウータンは仲のよい仲間がくると食べているバナナを半分あげる。気の合わない仲間がくるとバナナを少しあげる。嫌な奴が来るとバナナの皮を半分あげる。しかし何もあげないことはない」これ等から考えますと人間はオラウータンよりも劣るということになってしまいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」
 
六波羅密行(六度行)

1,布施欲張らないこと。そうすると人に物や心をあげることができる。」
仏教では布施を最も大切な行としておりますが、それには施者・受者・施物の三つが清浄なものではなくてはならぬとしており、これを三輪清浄といっております。他に布施(ほどこし)をさせて頂くことで自分の心が豊かになる。(喜捨)

 

2,持戒約束をまもること。そうすると人に信用されるようになる。」
仏法には五戒・十善戒などがあるけれども私達凡夫にはとてもそれを完全に守ることは出来ません。そうした自分の弱さ、至らなさを強く反省し許しを乞う行。

 

3,忍辱怒らないこと。そうすると人と争わなくなる。」 
仏教ではこの世の中を娑婆、忍土と申しておりますが、私達は生きて行く上でどうしても他に迷惑をかけずには生きて行けません。お互いに許し合うことの行。


4,精進
怠けないこと。そうすると仕事がすすみ、はかどる。」 私達はとかく何事にも一生懸命頑張り努力することが求められますが、仏教では頑張るというのはあまりよくないこととしております。他をおしのけるのではなく、頑張らずにゆったりとした、ゆとりのある生き方即ち「中道」を行けと申しております。

 

5,禅定気をちらさないこと。そうすると心が落ちつく。」
これは精神を一点に集中するのではなく、世の中の常識を離れて心を広く開放して行くことを目指します。


6,智慧よく考えること。そうすると物事がよくわかって来る。」
以上五つの波羅密行の実践により世間の知恵(人間の物差し)をはなれて、凡てを差別なく見通す仏の物差しを得ることを申しております。

  お彼岸の七日間は亡くなられたご先祖さまに感謝すると共に、この六つのことを守りますとお誓いする。春秋の「生活のくぎり」の期間であり、私達の日常生活への反省と努力をすることであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「面目 真面目」

「面目 真面目」

「面目」とは辞書を引くと世間に対するていさい。人に合わせる顔などと出ております。私たちは普段「面目を施す」「面目丸潰れ」「面目ない」などという言葉を耳にします。

又漢音で「ボク」と読み呉音で「モク」と読み「真面目」などと使っております。この面目とは大切な仏教語で、面とはおもてとか、つらというように私たちの顔のことであります。

顔即ち面には、目、耳、鼻、口等大切な人間の感覚器官が集まっておることはご承知の通りであります。さらに目はその顔の中心にあって身心の窓口となっているところで、目を見ればその人の心や体の具合、状態が推測出来るといわれ「目は口ほどにものを言い」とあるように、何を考えているか見当がつきます。

面目とはこの面と目を重ねたもので、私たちにとって一番大切なもの、つまり本性を指す語、で自分が本来持っている仏性のことであります。これは大宇宙の生命の一つとして生きる私たちの真のありかたを指しております。

この面目を正に真面目にいきることの重要なことを申しております。この真面目は辞書では本来の姿とか、真価、まじめと出ております。
まじめとはこの真の面目にそって生きることでなくてはなりません。私たちは、自分の人生をふざけたりなまけたりしないで、まじめに過ごして参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「鬼・鬼手仏心」

平成23年9月4日(日)


「鬼・鬼手仏心」
鬼というと人の形をし角をはやし、地獄に堕ちた人たちを散々にいじめ抜き、いためつける赤鬼、青鬼の姿が地獄図などに絵がかれております。慈悲心のかけらもなく、怪力にして残虐非道で常に他人を苦しめるものの喩えに使われるようになりました。

これは印度ではマーラ(魔)中国では鬼、日本では隠などという考えが合さって使われるようになったようです。鬼の呼名種類としては、鬼の外に鬼神、邪鬼、餓鬼、鬼子、夜叉等があります。
鬼は想像上の者でありますが、鬼のような行いや、心情は私たち人間の所行の内に数々見られることは御承知の通りであります。

鬼の反対は仏であります。病院の特に外科医の先生方の行いをよく鬼手仏心と申します。つまり患者の体を思い切ってメスを入れ切り開き患部を取り除く行為は正に鬼のような行為であります。そうした思いきったおそろしいことは患者の命をどんなことをしても救い、苦痛をやわらげようとする医師としての使命感、大慈悲をもってなさることで仏心そのものであるということになります。

昭憲皇太后に歌の道をもってお仕えした
税所敦子という方の姑さんは大変意地の悪い人で嫁の才能や評判をねたみ嫁いびりをしておりました。
ある日私が下の句を読むから上の句をつけてくれといって「鬼婆なりの人は言うなり」を示して嫁いびりをしました。敦子さんは少しもおどろかず筆をとると「仏にもまさる心と知らずして」と詠み姑の意地悪さ見事にかわしました。それからは姑さんは仏のような慈悲深い人になったそうです。
私たちは自分の心の角をとり、鬼心をおこさぬよう日々を反省して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「舎 利 禮 しゃりらい」

平成23年8月28日(日)

「舎 利 禮」 しゃりらい
 

(いっ)(しん)(ちょう)(らい) (まん)(とく)(えん)(まん) (しゃ)(か)(にょ)(らい)

 心をこめて、あらゆる徳を具えておられるお釈迦様のおみ足を頂いて礼拝いたします。


(しん)(じん)舎利(しゃり)
本地法(ほんぢほっ)(しん) 法界(ほうかい)塔婆(とうば)

 そしてお釈迦様のお体と同じご遺骨と、お釈迦様をこの世に送り出された、

はるか彼方におられる仏、すなわち大日如来とそのお働きを現世(この世)

に示される五輪塔婆等のすべてに私は敬い礼拝いたします。


(が)(とう)(らい)(きょう)
(い)(が)(げん)(しん) (にゅう)(が)(が)(にゅう) (ぶつ)(か)(じ)(こ) (が)(しょう)(ぼ)(だい)

 すると仏様は私のためにお姿を現して下さり、私の身心の中に流れ込み、私もまた仏の中に溶け込むことが出来ます、そして仏の加護の呼びかけと私の願いとが一つになって私はさとりへの実践が出来るのです。


(い)(ぶつ)(じん)(りき)
(り)(やく)(しゅ)(じょう) (ほつ)(ぼ)(だい)(しん) (しゅう)(ぼ)(さつ)(ぎょう)

 真に仏様の不思議なお力により、迷い苦しむすべての私たち衆生(人々)に大いなるご利益である、さとりを求める心を起こさせて下さり、それに向かっておみちびきをして下さるのです。


(どう)(にゅう)(えん)(じゃく)
(びょう)(どう)(たい)(ち) (こん)(しょう)(ちょう)(らい)

 そのおみちびきによって、私達一切衆生が完全なやすらぎ(大安心)涅槃に入ることが出来、一切分けへだてなく行きわたる本来の智慧といつくしみ(慈悲)の心を、私の心身に実現できることに、心からよろこびと感謝の念をこめて仏様を礼拝いたします。


大本山護国寺貫首 岡本永司

gozensamaのお履物

こんなお草履を履いていらっしゃいました。
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