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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

「ご馳走さま」

平成23年6月5日(日)



 

「ご馳走さま」というと、今では食事のときの言葉のように思われますが、本来はどうしてそのようになったか不思議です。馳走とは文字通り車馬をはやく走らせるとか、年月は馬が早く走るように過ぎ去って行くというような意味であり、古文書などでは一般にそのように使われて来ております。それが食事を出したり人をもてなすように使われたのは我国だけのようであります。もちろん食事を用意する為にはあちこちから材料(食材)を集めたり、煮炊の用意をし料理するためにかけまわることから食事などのもてなしをするように使われるようになったと考えられます。その裏には日本人の物に対する豊かな感性がうかがわれます。僧侶が修行中食事の折に五観の偈という句を読んで食事をいただきます。その第一に「功の多少を計り彼の来処を量る」という句があります。この句は「多くのおかげを思い、感謝してこの食事をいただきます。」ということでこの心が即ち「ご馳走さま」の心であります。ご馳走さまばかりではなく、お世話さま、御苦労さまなど、私達は日常挨拶などで使いますが、その多くが相手の立場に立ってその労をねぎらい、感謝する言葉であり、日本語の一番美しいことばといわれる「ありがとう」と同じように美しい言葉と申せます。自分が周囲の人々からばかりでなく自然界すべてのものの力によって支えられて生きていることに感謝せずにはおられない、深い智慧をこの言葉は豊かに表しておるものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「堪忍と勘弁」

平成23年5月29日(日)


堪忍と勘弁

 

諺に「ならぬ堪忍するが堪忍」とか「どうか堪忍して下さい」「いや勘弁ならねぇ」などと喧嘩言葉のように使われています。
現在では堪忍と勘弁は同意義のように使われ、いずれも「他人の過を許す」のように使われています。しかしこれ等は結果的にそうなっただけのことで本来は全く違う意味を持っております。

堪忍の堪は耐えるということで忍は御承知の通りしのぶであり、即ち耐えしのぶことで苦難を堪え忍ぶということになります。そして梵語の娑婆(苦しみ多い世界)世界を堪忍世界とも申して参ります。私たちの住むこの現世はお釈迦様のいわれるように本当に堪え忍ばねばならぬ困難、苦難に満ちております。そこでどんなつらい悲しい思いをしてもそれに堪えて堪忍袋の緒を切らぬように精進して行くことによってはじめて修行が成就し、安楽世界に生ずることが出来るのです。正に「堪難汝を玉にす」の通りであります。

次に勘弁は、そうした修行が出来たか否かをみるのに昔中国の禅宗では、師匠が弟子や修行者とテストする風習がありました。そこで勘はつきあわせて調べること、弁はわきまえて区別することの意味で、その修行者に「よし合格」との印可、許可を与えることであります。
一般的に相手に堪忍を乞うのは、しのんでくれと頼むことであり、相手を勘弁するのはこれだけ謝っているのだからゆるしてやろうということになります。

人間は悪鬼羅刹ではありません。法句経に「恨みは恨みによって報ゆるものではなく、ただ恨みを忘れることによってのみ恨みをなくすことが出来る」といわれておるように堪え忍ぶと共に相手をゆるす広く大きな心を持って参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「六根清浄」

平成23年5月22日(日)

「六
浄」
 

 

六根とは私たちが生まれながらにそなわっている目・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のことを申しております。よく物を持ち上げたり、立ち上がる時に「どっこいしょ」と言いますが、この六根清浄がつまったものといわれております。

私たちは心があり、その心に従って考えたり、行動をしております。外界の様々な事物や現象を観察し、判断し自らの内に受入れております。その諸々の事や物、現象を受止め受入れる器官を仏教では「
」の五感覚器官とそれをまとめて受入れる器官を「意」と申しており、前の五感に対し「意」を第六感と言っております。これ等はそれぞれ外界の事物を取入れる場合の根幹となるので此の六器官を六根と称します。

此の六根の根幹即ち根本が汚れていたり、荒れていたり、こわれていたのでは、事物、現象の凡てを受取り、受入れることが出来ませんことは申すまでもありません。
従って私たちは常に自分にそなわっている六根を正常に保ち、清らかにしておくよう心がけねばならぬということになります。

六根が清浄であれば美しい物が見えたり、きれいな音を聞くことが出来、よい香りを知り、よい味がわかり、事物を正しく判断することが出来るのであります。
高い山に登る人達が昔は「六根清浄」の掛声をかけながら登ったと云われますが、これも危険な場所に行くときは、自らの六根を正常にし冷静な判断をすることで事故防止をするという行為であります。私たちは日常の生活に於いても常に六根清浄を心がけて過して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「我慢・頑張る」

平成23年5月15日(日)

「我慢・頑張る」


http://www.youtube.com/watch?v=lLED3-yp2Xw

 言葉は生きていると申しますが、仏教語は特に長く使われている内に本来とはまるっきり逆の意味に転じて使われる場合が多々あります。貴様や無学、無分別などが一般的に悪い意味になってしまいました。

これとは逆に良い意味に使われるようになった言葉に我慢、頑張るがあります。「ここは我慢のしどころだ」などと言っている内に、いつの間にか我慢とは耐えること、こらえること即ち辛抱や忍耐と同義語のように使われるようになってしまいました。しかし、我慢とは本来はあってはならないことで、人間の迷いのもとである貪瞋痴慢の四大煩悩の一つなのであります。

慢はマーナの音写語で思いあがりのことです。この慢は分類すると慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢の七慢になり、その内四番目の我慢とは自己の中心に我があると考え、その我を頼んで他をさげすむ心のことであります。そしてこの我が強ければ我を張って自分の説や生き方を押し通すことになります。

即ち頑強にして屈しないところから頑張るという言葉が出来たようであり我慢強くて頑張る人とはもともとは、他の人の言葉や行いに耳を貸さない救いようのない人のことでありました。ところが今日では大変立派な人のように使われてしまっております。本来は我慢という思いあがりを抑え頑張ることは、我を張らずに本物を見極めるよう努力することでなくてはならぬことです。

私達の心の中には常にこの思い上がりの慢があります。言葉本来の意味をしっかりと確かめて参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「四 天 王」

平成23年5月8日(日)


「四 王」

 
 
http://www.youtube.com/watch?v=9GT6bOuZgVo

 私たちはよく、ある集団や分野で特に能力や才芸にすぐれた人が二人いた場合には「あの二人は両横綱だ」とか、もし三人いた場合には「何々の三羽烏」などと申し、それが四人の場合には「四天王」といっております。此の四天王は仏教語であります。仏教の世界観では私たちの住むこの世界は須弥山という山の中にあり、此の山の中腹には四天王天という天部の世界があり、その天部の東西南北の四方にそれぞれ一人ずつの天主がおられて此の世界を守っていてくれているのであるとしております。東方には持国天、南方には増長天、西方には広目天、北方には多聞天がおられて私たちを守護してくださっておるのであります。特に多聞天は別名を毘沙門天とも云い、皆様ご承知の七福神のお一人としても親しまれておる天であられ、北の方、即ち上位から大切なものを背後から守護するという役目を持っているところから、戦国時代上杉謙信公は都の北を守るとして毘沙門信仰があつく、毘を旗じるしとして戦ったことはよく知られているところであります。この四天王はいづれも印度古来よりの武神で、それが仏法に取入れられ仏法と仏法帰依の人たちを守る強力な願いをもっておられるのであります。寺院の本尊様のまつられているところが須弥山を形取って須弥壇とし、その四方に四天王が本尊様を守って安置されております。自衛隊や警察官に守られて私たち国民の生活が安全に守られているように、四天王は仏教徒の私たちを日々守ってくれることに感謝し帰依して参りましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「八風吹不動天空月(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


平成23年5月1日(日)

「八風吹不動天空月
(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


http://www.youtube.com/watch?v=UVSxaDHIUNI


八風とは私共の心や身体に常に大きな影響をもたらす次の八つの状態を申します。

 

一、(り)役に立つ、都合がいい、すぐれている、もうける、とくをする。

二、(すい)おとろえる、駄目になる、老化、疲労、失う、損をする。

三、(き)こわれる、破れる、悪口をいわれる、けなされる。

四、(よ)ほまれ、名誉、名聲。

五、(しょう)ほめる、たたえる、称讃。

六、(き)とがめる、そしる、陰口をいわれる、ないがしろにする。

七、(く)苦痛、困難、悲しみ、いじめる、思うようにならない。

八、(らく)たのしみ、よろこび、やすらか、満足。

 

私共は、日々の生活の中でこの八つのどれかに振り廻されて喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりしております。これを私共の心をかき乱す八つの迷いの風、悪風としております。しかしどんな風が吹こうが確固不動の信念があれば何も恐れることは無いということであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「他山の石」

平成23年4月17日(日)

「他山の石」

http://www.youtube.com/watch?v=Xa7uCu5wTXQ 

 詩経に「他山の石をもって玉を攻むべし」とあります。
この「攻むべし」というのは「磨き上げなさい」ということで、よその山で取れた石でも、玉を磨く時の砥石にしなさいということを申しております。

現在よく云われている「他山の石」と同じことで他の人の言動でも自分の言動の参考にすることが出来るという意味になります。華厳経という仏典に有名な善財童子の物語が出ております。

童子(青年)が悟りを求める旅の中で五十三人のさまざまな職業の人達を訪ねて行くということで、ここから東海道五十三次の宿場が出来たもとになっているといわれております。

善財童子は歴訪する凡ての人々からいろいろな教えや有り方を学びました。
即ち海で魚をとる仕事の漁師を訪ねては海の不思議な力や姿から得た教えを開き、人の病気を看る医者からは人の生命の不思議や身体のこと、そして患者に対する慈悲の心を学び、長者(有徳な人)からは、凡ゆる人や物は皆それなりの価値を有していることを教えられ、また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして働く農家の人にあっては自然の働きの偉大さや物をつくる苦労を教えられました。

このように童子はその気になり心さえあれば、目の見えるところ、耳のきこえるところ、いたるところにそれぞれすばらしい世界のあることを知り、やさしい心の人に会っては、ものに従う心の智慧をさとり、それを自分の求道に活かすことが出来たということであります。

私たちはどうも他の人の言っていることや、行っていることをあまり自分の為の参考にしない傾向があります。華厳経は善財童子の物語をかりて、だれにもある長所を取入れそれを自分の生き方の中に採り入れ、すばらしい人生を展開すべきことを説いておるのであります。
 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「初 心」

平成23年4月10日

「初 心」


http://www.youtube.com/watch?v=I5NPAOkGqEI
 

私たちはよく「初心にかえって」とか「初心忘れるべからず」とか自動車免許とりたての人は初心者マークの札をつけて車の運転をしております。
この初心というのは未だ習い始めて不なれであり未熟であるということと物事を始めた時の純粋で謙虚な気持というように二通りに使われたり考えられたりしております。
しかしこの二通りは実は一つのことで私たちが直面する
凡てのことにあてはまることであります。そして初心とは大切な仏教語でもあります。
即ち初発心のことで発心とは発菩提心の略であります。仏の教えを習い実践して行こうと初めて発した心ということであります。従って入りたてでまことに未熟であるが純粋で一生懸命に仏道を志す心が初心の本来の意味になります。

この初心が一般に使われるようになったのは仏教に源を持つ能楽を大成された世阿弥がその能楽論書「花鏡」の中で「是非の初心忘るべからず時々の初心忘るべからず老後の初心忘るべからず」の句を残されそこから初心の句が使われるようになったようであります。
世阿弥は能を習いはじめた時の芸に対する心を忘れてはならぬと戒めたのですがそこから何事に於ても最初の心持、真剣さそして目的を忘れてはならぬということになりました。私たちはややもすると初めの内は真剣に心をつくしますがしばらくすると油断しがちであります。即ち初心忘れがちになり失敗することになりがちです。

私たち仏教徒は本来の初心の意味をしっかりと受止め菩提の心をおこし、仏道を歩んで参りたいと念じております。

大本山護国寺貫首 岡本永司

東日本大震災特別法要

平成23年3月26日(土)



http://www.youtube.com/watch?v=bl6iNPue-XI

チベット人と日本人が共に東京で特別法要
http://www.tibethouse.jp/news_release/2011/110329_houyou.html

東日本大震災特別法要
http://www.tibethouse.jp/event/2011/110326_eqhouyou.html
 

「苦について」

平成23年3月27日(日)

「苦について」

http://www.youtube.com/watch?v=SJGV2Jtl8AU

http://www.youtube.com/watch?
v=Nt42Rg2a2PU&feature=related 

 

苦という字は音読では「く」訓読では「にがい」と読まれます。苦によって表現される言葉を音読では苦心、苦労、苦痛、苦行、貧苦などがあり訓読では苦手、苦味、苦虫などと使われております。

このような苦という意味を辞典では損悩逼迫の儀とか身心を逼迫して不快なる状態などと出ております。即ち精神面、物質面にわたって私達人間に及ぼす苦痛や悩みをいい、人生に於ける様々な障害や不快な状態を申しております。私達が生活して行く上でこうした苦しみ悩み悲しみなど思うようにならないことが次々に生じて来ることは皆様ご承知の通り避けられない現象であります。

この事を御釈迦様は「人生は苦なり」と申され、仏教の根本思想を表す一つとして「一切皆苦」と説いております。仏教は何故私達はこうした「苦」を受けなければならないのか、その理由や根拠を問いつめ更にそこから脱れる道を説き自らにふりかかる避けられない苦を尊い経験としてそれを土台として人生を強く生きて行くすべを示しております。この苦について経典では
内苦(自分の身心より起きる苦)
外苦(外界からの作用によって起きる苦)
苦苦(不快なものから受ける苦)
壊苦(好きなものがこわれて行く苦)
行苦(万物が変るのを見て起きる苦)
その他人間として生きて行く上に必然的に起きる生・老・病・死などがこまかく説かれております。

以上私達が経験する苦は内面より起きるもの、外界より起きるものとの二つに大別されますが、いずれにしても私達人間は苦即ち思うようにならないことの多い存在であることをしっかりと認め、その上に立って心のあり方、日々の生き方を定めて参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

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