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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2011年01月

「一念発起・一味・醍醐味」

平成23年1月30日(日)

「一念発起・一味・醍醐味」

http://www.youtube.com/watch?v=cf_LDds3vKI


一念発起(いちねんほっき)

「一念発起して何々をはじめた」などと使い、一般的には新しい何かをやろうとすることを表現していますが、本来は立派な仏教語であります。
一念とはきわめて短い時間をいい、発起とは発起菩提心の略であります。つまり仏の教えを聞いている内に、ひらめきを得て一瞬の内に菩提心をおこすこと、菩提心とはさとりを求め、仏道を行なおうとする心のことで、大乗仏教ではさらに人の為、世の為に尽そうとする願いが付加して考えられております。
南禅寺の周信禅師は「一年の計は殻を植ゆるにあり、十年の計は樹を植ゆるにあり、百年の計は徳を植ゆるにあり、人の最も植ゆるべきは徳なり」という言葉を残されております。

 

一味(いちみ)醍醐味(だいごみ)

一味というと今日では「泥棒の一味」などと悪い方にしか使われておりませんが、本来は仏教的に深い意味のある言葉です。
一味とは海の水がどこも同じ味であることから真実絶対の立場で見ればすべてが平等であるということ、そして仏教という大海ではその教えが時や人に応じて多種多様であっても皆同じであることをいっております。
醍醐味とは仏法を乳製品にたとえてインドでは牛乳を精製する過程で五味の内最高の製品をいい、仏法をそれにたとえていっています。
 

大本山護国寺貫首 岡本永司

節分の福豆をお加持していただきました

「言 語 道 断」

平成23年1月23日(日)

「言 語 道 断」

http://www.youtube.com/watch?v=CmQ9A63MfpY


現在ではこの言葉は「もってのほかだ」とか「とんでもないことだ」とか言って大きな過ちを非難する時などに使われております。しかし本来は文字通り言葉や言語などで表現する道が断たれることで言語では表現出来ない深遠な真理を申しておるのであり道は口で言うことの意であります。


この言語で表現し得ぬものの代表はおさとりのことで仏説華手経に「出世間の法は即ち無言説にして言語道断・心行不滅」とあり法華経には「諸法は空であり一切語言の道断へ」と出ております。又、言語道断の厳儀と言えばあまりに立派なことで言葉では表現出来ぬ程であるということであります。

これがあまり悪くて何とも言いようがないというような意味で使われているのは何とも残念なことであります。言葉は時代によってさまざまに変った意味にとらえられたり、人によって使い方が異なることもあるので宇宙の真理を見極めんとすると言語では伝えきれないということになります。
いくら氷はつめたいものであると口で説明しても水を知らぬ者にはわかりません。実際に手にふれさせてはじめて水のつめたさがわかるということであります。
道元禅師は不立文字、言語道断と申しながら「言語道断とは一切の言語をいう」として言語を生かして使うことを説いておられます。私たちは言葉、言語の大切さを知って人の言葉を聞き自らも使って参りたいものであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

第57回文化財防火デー

平成23年1月21日(金)

第57回文化財防火デー謝辞


「サラサラ・サンサーラ」

平成23年1月16日(日)

http://www.youtube.com/watch?v=d5d5YWX7y98&feature=youtu.be&a


サラサラ・サンサーラ

「春の小川はさらさら流る」という童謡があります。また最近は「血液サラサラ」などと薬の広告などに使われております。
この「さらさら」「サラサラ」の意味を辞書で見ますと「水などが浅い所をよどみなく流れるさま」とか「物事がつかえずにはかどるさま」「物に粘り気や湿り気がないさま」などと出ております。

梵語に物事の流れを示すサンサーラという言葉があります。このサンサーラは輪廻とか流転と訳され、生あるものが生死を繰り返すことを申しております。
仏教では迷いの世界に生死を繰り返す私達のこの世界のことをさしますが、サンサーラとサラサラは何か似ているような意味があるように思われます。

私達の体は血液がサラサラ流れずに滞れば病気になり止れば死んでしまいます。そして水や血液ばかりではなく宇宙の凡ての自然現象や物事はサンサーラしていると申せます。
サラサラ流れていないと成り立たないものばかりであるといえます。この事を歌った歌に「岩もあり木の根もあるサラサラとただサラサラと水の流るる」というのがあります。自然現象や体の状態ばかりではなく、私達の心や気持ちも何か執着し、とらわれてしまうとそこに止まっていつまでたっても流れることが出来ず様々なトラブルが起きるもとになることはご承知の通りであります。

日々の生活の中で血液サラサラで健康であるように気を付けると共に心も気持ちもサラサラ・サンサーラして正しく輪廻して参りますよう心掛けたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「不思議」な話

平成23年1月9日(日)

本日は平成23年になり初めての「朝マイルの会」でしたので、張り切ってgozennsamaのお話を撮影したのですが、ビデオカメラのメモリーがいっぱいになっていたのを気づかずに録画をしていて、途中でビデオが止まってしまい最後まで映像を収めることができませんでした。

おつとめ後のお茶の時間に録画を確認しつつ過去の不要な映像を消去していたら、消したつもりはないのですが本日撮影した映像まで消してしまったようです。きちんと操作したつもりなのですが消えてしまいました。

そんな訳で、本日は映像はありません。プリントだけでお赦しください。
ですが、今日のgozennsamaの「不思議」な話しは過去に何度かお話されている内容でしたね。修養会の方でしたら既に何度か聞いたことがあると思います。

gozennsamaのお話しのなかでも私はこの「不思議」なお話しは大好きなので朝マイルの皆様にもお伝えしたかったのですが、またいつかの機会を楽しみにしていて下さいね。

お詫びに、先日川崎大師へgozensamaと初詣に行って参りました。その時の映像を限定公開いたしましたので。どうぞ皆様、ご一緒にバーチャル詣でをお楽しみ下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=juM2gnR7cdk



「不 思 議」
不思議とは不可思議の略で考えや思いの領域を越え計り知ることの出来ないことを申します。又、数取りの上で百、千、万、億、兆、京と数えていって最大最後の数取を不可思議とし、下に数えていって最後の数取が「清浄」といわれております。

いずれにしても私達をとりまく様々な出来ごとでも不思議なことが数限りなく満ちていることがわかります。

人と人との出会い、夫婦、親子の縁をとって見ても、思慮や言葉に言い表すことの出来ない縁によるものであることが思い当たります。ましてや天地自然の動き、動、植物のいのちの働きなどなど私達の思慮を越えたもの即ち不思議な計らいによるものであり、私達のとうてい思い及ばないことであることがわかります。

不思議とは本来、仏の功徳や智慧の働きを表すために使われた言葉であり、それは思い計ることも言葉に表すことの出来ないものであるということであります。
私達は学んだり、修行をしたりすればする程、自分の至らなさ、おろかさがわかって来ると言われます。
天台宗を開かれた伝教大師は自らを愚の中の極愚と申され、親鸞上人はご自身を愚禿と言われ、良寛上人は大愚の良寛と申されました。
修証義には「仏の功徳は大地、草木、瓦礫にまで至っており私達は最上甚深不可思議な仏の力によって生かされているのである」と説かれております。

私達はこれ等の先徳にならって自らの至らなさ、おろかさを自覚し精進して摩訶不思議な佛の功徳を頂いて参りたいものであります。

 大本山護国寺 貫首 岡本永司

 

gozensamaとバーチャル初詣

平成23年1月5日(水)
昨日はgozensamaと毎年恒例の初詣に行ってきました。
いつもは朝早く出かけるのですが昨日はお昼頃に川崎大師へ向かいました。
みなさまどうぞご一緒に“行ったつもり詣で”しましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=juM2gnR7cdk

大般若会

平成23年1月3日 「大般若会」


http://www.youtube.com/watch?v=vLGGFkoQH44&feature=youtu.be&a

新春法話「人間の生きる力は希望である」

平成23年1月2日(日)

http://www.youtube.com/watch?v=Vu1LqtVzvwQ

仁王会祈願文

平成23年1月2日(日)

http://www.youtube.com/watch?v=VkKeWVwSdCw 

平成23年、新年のご挨拶 「誓願」

平成23年1月1日(土)

平成23年、西暦2011年「新年のご挨拶」 

http://www.youtube.com/watch?v=15F0jeBaoxQ
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