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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2011年02月

「機嫌・譏嫌」

平成23年2月27日(日)

「機嫌・
譏嫌」



http://www.youtube.com/watch?v=HPlRxH_odvU


上機嫌とか御機嫌伺いなどと私たちは日常使っております。
辞典には気持とか顔色などと出ておりますが、この機嫌は本来は譏嫌と書くのが本字であります。議とはそしること、嫌はきらうことで、そりきらうことを申しております。
仏教の戒律の中に譏嫌戒という戒律があります。これは他人から譏嫌されないための戒のことで僧尼のたしなみとしての戒であります。

一例として、にら、にんにく、らっきょう、しょうが等の強い臭いのする野菜は別にそれを食べたからといって悪いわけではなくて、又お酒を飲んでも罪になることではありません。
しかしこれ等を食べたり飲んだりしたことで人に嫌われるもとになることがあるかも知れないということで、これ等を口にしてはならないという戒が定められました。
禅寺の山門脇に「不許葷酒入山門」と書かれた札などがかかっておることがあります。
葷とは前述のような臭い野菜のこと、酒は御承知のことで、これ等を口にした者は寺の中に入ってはならぬということで、寺の中では人様から譏嫌されないように身だしなみに心を配れとの、おくゆかしい配慮が示されております。
そのことから自分の接する相手の気分の善し悪しをも言うようになり、更に広く相手の事情などをさすことになったのであります。ところで「正法眼蔵」に「時は人の譏嫌をかえりみず」とあります。
自然の移り変り、日時の経過は人の譏嫌などに気を使ってくれません。私たちはそうした事を心に置いて自らを正し、仏道を実践して参ることにいたしましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「義理・人情」

平成23年2月20日(日)

「義理・人情」


http://www.youtube.com/watch?v=ifRLeliZWCM

この頃は義理も人情もない時代といわれております。義理がすたれ、人情がうすくなれば世の中は渡りづらくなりますし、また義理・人情の板ばさみになってもまた苦しいものであります。

この義理ですが、本来は物事の道理、正しい筋道をいう言葉で、経典はしたがってこの義理を説いたものであると言えます。

義理は人の踏み従うべき道といえますが、それが様々な人間関係で人が他人に行わねばならないことを指すようになり、更にいやでもしなければならないことを「お義理」というようにさえなりました。

一方人情は本来人間的な心の迷いをいっており、世間的なものに囚われる人間的な思慮分別の迷いを言ったものであります。それが「人間味、人間らしい」と意味が変わり、いつか人情はよい意味に用いられるようになりました。人情味のある人は良い人、人情に厚い土地は住みよいところと受取られるようになりました。
このように言葉は生きものですから、いつか正反対の意味になったりすることが多いようです。

いずれにしても私達は義理を見極め、人情のいかなるものかを知って迷いの生活を送ることのないようにしたいものであります。
夏目漱石は草枕の中で、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」といっておりますが、智情意も、義理人情もほどよくあるのが最もよいといえます。

まずは自分の心を調整して、ほどよいものとするよう管理していくことが大切なようであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

小石川中等教育学校職業体験実習

平成23年2月18日(金)

開帳法要併小石川中等教育学校職業体験実習


http://www.youtube.com/watch?v=AJGxFDNBNzI

涅槃会

平成23年2月15日(火)

涅槃会 

http://www.youtube.com/watch?v=4T_Bea7rP9w


涅槃会の俳句

涅槃図を掛けんとすなる僧五人  高浜虚子

お涅槃の絵解きはじめの僧合掌  掛木爽風

きさらぎの日和もよしや十五日  鬼貫

波立てる跋提河あり涅槃像    池内たけし

涅槃会や花も涙をそゝぐやと   山口素堂

鶴林に棚雲かかる涅槃像     稲荷島人

美しき印度の月の涅槃かな    青畝

雲に乗り女人も嘆く涅槃変    稲田秋央

涅槃図に麻耶夫人とぞ読まれける 後藤夜半

げじげじもゐて涅槃図絵古びけり 八幡城太郎

御仏や寝ておわしても花と銭   小林一茶

「両舌・二枚舌」

平成22年2月13日(日)

「両舌・二枚舌」


http://www.youtube.com/watch?v=94wkpxAF8Pk


 仏教の十のいましめ即ち十善戒の中に不両舌という戒が示されています。いわゆる二枚舌を使ってはいけないということであります。

 此の事について仏教説話の中で面白い話がのっております。昔インドの山奥で獅子(ライオン)と虎が仲良く暮らしておりました。それぞれ住みかは違っていても、食物は常に一緒に分けあって食べておりました。そこへある時やせ細った山犬がやって来て、どうか自分も仲間に入れてくれるように頼んだのです。

ライオンと虎はその申入れを受入れることにしました。ライオンと虎のおかげで山犬はいろいろな肉を腹一杯食べられるようになりました。
 ところが最初の内は山犬は大変感謝をしていたのですが、ある時こんな事を考えました。「毎日おこぼれで食べる肉はもうあきあきした。今度はライオンや虎の肉を食べてみたいものである」そこで悪知恵を働かせてライオンと虎を喧嘩させて相打ちにさせ倒れたところで両方の肉をいただこうと考えつきました。
 そして山犬はライオンと虎の両方の所に行ってそれぞれに互いに相手の悪口をいっていると伝えました。ところが一向に両者が争う気配がありません。ライオンと虎は互いに信じ合っているので、そんな山犬の嘘をはじめから見破っていたのです。山犬は仲間から追出され、もとのあわれな姿になってしまいました。

 このように人の仲を裂く言葉を言ったり告口をしたりすることをバイシュニャと言い、両舌と漢訳されこれを俗に二枚舌と申しております。
 私たちは勿論二枚舌を使うことなく、又人の二枚舌に迷わされることなく、真実を見きわめる智慧をみがいて参りましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「南無」

平成23年2月6日(日曜日)

「南 無」


http://www.youtube.com/watch?v=K7s0Ma0DTNA&feature=youtu.be&a


私たちは仏様や祖師を拝む時に「南無阿弥陀仏」とか「南無大師遍照金剛」とお唱えいたします。

 ある方より何故はじめに「南か無い」とつけて仏教を拝むのですかとのおたずねがございました。たしかに考えてみるとおかしなことと思われるのは当然のことであります。

 実は南無と申すのは梵語のナマスの音写語で本来の意味は敬うとか、自らの身命をあずける相手を尊敬することであり、それが中国に入って当て字で南無となったので、この字そのものには意味がありません。経典中にも多くこの言葉は出て参りますが、仏・法・僧の三宝や神仏に自分の身命をあずける「帰命」や心より敬い礼拝致しますということであります。平たく申せば南無と唱えるのは「神仏にすべておまかせいたしますので何卒お守り下さい」ということになると思います。

 仏教では天地・宇宙の働き大自然の働きを仏の姿としてとらえております。その大きな仏菩薩に凡ておまかせすることで諸々の苦が静まり静かな心が生じて来ることになります。

 昔話にある人が高徳の僧に地獄や極楽は何処にあるのかと訪ねたところその僧は南にあるよう答えられたそうです。つまり南の方向にどんどん進んで行くと地球を一回りして自分に帰る即ち皆身、自分に到着するということで自分自身の心の中にこそ地獄も極楽もあるということを申されておるのであります。

 私たちは心をこめて南無の本来の意味をかみしめて日々を過して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

福豆が詰め終わったらお加持と読経

1月30日(日曜日)
福豆が詰め終わったので御前様にお加持を頂きみんなで観音経を一巻読経しました。


http://www.youtube.com/watch?v=4atB2PLQZbo
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