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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2011年05月

「堪忍と勘弁」

平成23年5月29日(日)


堪忍と勘弁

 

諺に「ならぬ堪忍するが堪忍」とか「どうか堪忍して下さい」「いや勘弁ならねぇ」などと喧嘩言葉のように使われています。
現在では堪忍と勘弁は同意義のように使われ、いずれも「他人の過を許す」のように使われています。しかしこれ等は結果的にそうなっただけのことで本来は全く違う意味を持っております。

堪忍の堪は耐えるということで忍は御承知の通りしのぶであり、即ち耐えしのぶことで苦難を堪え忍ぶということになります。そして梵語の娑婆(苦しみ多い世界)世界を堪忍世界とも申して参ります。私たちの住むこの現世はお釈迦様のいわれるように本当に堪え忍ばねばならぬ困難、苦難に満ちております。そこでどんなつらい悲しい思いをしてもそれに堪えて堪忍袋の緒を切らぬように精進して行くことによってはじめて修行が成就し、安楽世界に生ずることが出来るのです。正に「堪難汝を玉にす」の通りであります。

次に勘弁は、そうした修行が出来たか否かをみるのに昔中国の禅宗では、師匠が弟子や修行者とテストする風習がありました。そこで勘はつきあわせて調べること、弁はわきまえて区別することの意味で、その修行者に「よし合格」との印可、許可を与えることであります。
一般的に相手に堪忍を乞うのは、しのんでくれと頼むことであり、相手を勘弁するのはこれだけ謝っているのだからゆるしてやろうということになります。

人間は悪鬼羅刹ではありません。法句経に「恨みは恨みによって報ゆるものではなく、ただ恨みを忘れることによってのみ恨みをなくすことが出来る」といわれておるように堪え忍ぶと共に相手をゆるす広く大きな心を持って参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「六根清浄」

平成23年5月22日(日)

「六
浄」
 

 

六根とは私たちが生まれながらにそなわっている目・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のことを申しております。よく物を持ち上げたり、立ち上がる時に「どっこいしょ」と言いますが、この六根清浄がつまったものといわれております。

私たちは心があり、その心に従って考えたり、行動をしております。外界の様々な事物や現象を観察し、判断し自らの内に受入れております。その諸々の事や物、現象を受止め受入れる器官を仏教では「
」の五感覚器官とそれをまとめて受入れる器官を「意」と申しており、前の五感に対し「意」を第六感と言っております。これ等はそれぞれ外界の事物を取入れる場合の根幹となるので此の六器官を六根と称します。

此の六根の根幹即ち根本が汚れていたり、荒れていたり、こわれていたのでは、事物、現象の凡てを受取り、受入れることが出来ませんことは申すまでもありません。
従って私たちは常に自分にそなわっている六根を正常に保ち、清らかにしておくよう心がけねばならぬということになります。

六根が清浄であれば美しい物が見えたり、きれいな音を聞くことが出来、よい香りを知り、よい味がわかり、事物を正しく判断することが出来るのであります。
高い山に登る人達が昔は「六根清浄」の掛声をかけながら登ったと云われますが、これも危険な場所に行くときは、自らの六根を正常にし冷静な判断をすることで事故防止をするという行為であります。私たちは日常の生活に於いても常に六根清浄を心がけて過して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「我慢・頑張る」

平成23年5月15日(日)

「我慢・頑張る」


http://www.youtube.com/watch?v=lLED3-yp2Xw

 言葉は生きていると申しますが、仏教語は特に長く使われている内に本来とはまるっきり逆の意味に転じて使われる場合が多々あります。貴様や無学、無分別などが一般的に悪い意味になってしまいました。

これとは逆に良い意味に使われるようになった言葉に我慢、頑張るがあります。「ここは我慢のしどころだ」などと言っている内に、いつの間にか我慢とは耐えること、こらえること即ち辛抱や忍耐と同義語のように使われるようになってしまいました。しかし、我慢とは本来はあってはならないことで、人間の迷いのもとである貪瞋痴慢の四大煩悩の一つなのであります。

慢はマーナの音写語で思いあがりのことです。この慢は分類すると慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢の七慢になり、その内四番目の我慢とは自己の中心に我があると考え、その我を頼んで他をさげすむ心のことであります。そしてこの我が強ければ我を張って自分の説や生き方を押し通すことになります。

即ち頑強にして屈しないところから頑張るという言葉が出来たようであり我慢強くて頑張る人とはもともとは、他の人の言葉や行いに耳を貸さない救いようのない人のことでありました。ところが今日では大変立派な人のように使われてしまっております。本来は我慢という思いあがりを抑え頑張ることは、我を張らずに本物を見極めるよう努力することでなくてはならぬことです。

私達の心の中には常にこの思い上がりの慢があります。言葉本来の意味をしっかりと確かめて参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「四 天 王」

平成23年5月8日(日)


「四 王」

 
 
http://www.youtube.com/watch?v=9GT6bOuZgVo

 私たちはよく、ある集団や分野で特に能力や才芸にすぐれた人が二人いた場合には「あの二人は両横綱だ」とか、もし三人いた場合には「何々の三羽烏」などと申し、それが四人の場合には「四天王」といっております。此の四天王は仏教語であります。仏教の世界観では私たちの住むこの世界は須弥山という山の中にあり、此の山の中腹には四天王天という天部の世界があり、その天部の東西南北の四方にそれぞれ一人ずつの天主がおられて此の世界を守っていてくれているのであるとしております。東方には持国天、南方には増長天、西方には広目天、北方には多聞天がおられて私たちを守護してくださっておるのであります。特に多聞天は別名を毘沙門天とも云い、皆様ご承知の七福神のお一人としても親しまれておる天であられ、北の方、即ち上位から大切なものを背後から守護するという役目を持っているところから、戦国時代上杉謙信公は都の北を守るとして毘沙門信仰があつく、毘を旗じるしとして戦ったことはよく知られているところであります。この四天王はいづれも印度古来よりの武神で、それが仏法に取入れられ仏法と仏法帰依の人たちを守る強力な願いをもっておられるのであります。寺院の本尊様のまつられているところが須弥山を形取って須弥壇とし、その四方に四天王が本尊様を守って安置されております。自衛隊や警察官に守られて私たち国民の生活が安全に守られているように、四天王は仏教徒の私たちを日々守ってくれることに感謝し帰依して参りましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「八風吹不動天空月(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


平成23年5月1日(日)

「八風吹不動天空月
(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


http://www.youtube.com/watch?v=UVSxaDHIUNI


八風とは私共の心や身体に常に大きな影響をもたらす次の八つの状態を申します。

 

一、(り)役に立つ、都合がいい、すぐれている、もうける、とくをする。

二、(すい)おとろえる、駄目になる、老化、疲労、失う、損をする。

三、(き)こわれる、破れる、悪口をいわれる、けなされる。

四、(よ)ほまれ、名誉、名聲。

五、(しょう)ほめる、たたえる、称讃。

六、(き)とがめる、そしる、陰口をいわれる、ないがしろにする。

七、(く)苦痛、困難、悲しみ、いじめる、思うようにならない。

八、(らく)たのしみ、よろこび、やすらか、満足。

 

私共は、日々の生活の中でこの八つのどれかに振り廻されて喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりしております。これを私共の心をかき乱す八つの迷いの風、悪風としております。しかしどんな風が吹こうが確固不動の信念があれば何も恐れることは無いということであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

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