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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2011年09月

「わが心は十界にある」

わが心は十界にある

 
 弘法大師は「唐招提寺の達
嚫の文」の中で「六大の所遍皆是れわが身なり、十界の所有竝に是れわが心なり」と記されております。これは「私たちの体は六大より構成されており、私たちの心には十界がある」という句です。
 即ち私たちの体は地・水・火・空・風の五大(要素)と心(意識)を加えて六つの要素からなり、十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道と仏の世界である声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖であります。私たちの心の変化はこの十種類にわたっていると申しておられるのであります。
 
 西洋のジキルとハイドではありませんが、人間の心は常にコロコロと移り変わって、神や仏のような心の時もあり、阿修羅のように鬼のような心の時もあり、餓鬼畜生にもまさるおそろしい心に住する時もあると申せます。慈悲心をもって養っていた里子をいじめ殺してしまった事件が最近報じられたり、我が子を自分の快楽のために飢死させてしまう親もおります。なんともやりきれない思いでいっぱいであります。
 京都大学の類人猿研究所の所長をされていた河合雅雄先生はオラウータンは人間よりすばらしいところがあると次のように言っておられます。「人間は自分と気の合った人がくると食物を分けて与えますが気の合わない人が来るとかくしてしまいます。オラウータンは仲のよい仲間がくると食べているバナナを半分あげる。気の合わない仲間がくるとバナナを少しあげる。嫌な奴が来るとバナナの皮を半分あげる。しかし何もあげないことはない」これ等から考えますと人間はオラウータンよりも劣るということになってしまいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」
 
六波羅密行(六度行)

1,布施欲張らないこと。そうすると人に物や心をあげることができる。」
仏教では布施を最も大切な行としておりますが、それには施者・受者・施物の三つが清浄なものではなくてはならぬとしており、これを三輪清浄といっております。他に布施(ほどこし)をさせて頂くことで自分の心が豊かになる。(喜捨)

 

2,持戒約束をまもること。そうすると人に信用されるようになる。」
仏法には五戒・十善戒などがあるけれども私達凡夫にはとてもそれを完全に守ることは出来ません。そうした自分の弱さ、至らなさを強く反省し許しを乞う行。

 

3,忍辱怒らないこと。そうすると人と争わなくなる。」 
仏教ではこの世の中を娑婆、忍土と申しておりますが、私達は生きて行く上でどうしても他に迷惑をかけずには生きて行けません。お互いに許し合うことの行。


4,精進
怠けないこと。そうすると仕事がすすみ、はかどる。」 私達はとかく何事にも一生懸命頑張り努力することが求められますが、仏教では頑張るというのはあまりよくないこととしております。他をおしのけるのではなく、頑張らずにゆったりとした、ゆとりのある生き方即ち「中道」を行けと申しております。

 

5,禅定気をちらさないこと。そうすると心が落ちつく。」
これは精神を一点に集中するのではなく、世の中の常識を離れて心を広く開放して行くことを目指します。


6,智慧よく考えること。そうすると物事がよくわかって来る。」
以上五つの波羅密行の実践により世間の知恵(人間の物差し)をはなれて、凡てを差別なく見通す仏の物差しを得ることを申しております。

  お彼岸の七日間は亡くなられたご先祖さまに感謝すると共に、この六つのことを守りますとお誓いする。春秋の「生活のくぎり」の期間であり、私達の日常生活への反省と努力をすることであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「面目 真面目」

「面目 真面目」

「面目」とは辞書を引くと世間に対するていさい。人に合わせる顔などと出ております。私たちは普段「面目を施す」「面目丸潰れ」「面目ない」などという言葉を耳にします。

又漢音で「ボク」と読み呉音で「モク」と読み「真面目」などと使っております。この面目とは大切な仏教語で、面とはおもてとか、つらというように私たちの顔のことであります。

顔即ち面には、目、耳、鼻、口等大切な人間の感覚器官が集まっておることはご承知の通りであります。さらに目はその顔の中心にあって身心の窓口となっているところで、目を見ればその人の心や体の具合、状態が推測出来るといわれ「目は口ほどにものを言い」とあるように、何を考えているか見当がつきます。

面目とはこの面と目を重ねたもので、私たちにとって一番大切なもの、つまり本性を指す語、で自分が本来持っている仏性のことであります。これは大宇宙の生命の一つとして生きる私たちの真のありかたを指しております。

この面目を正に真面目にいきることの重要なことを申しております。この真面目は辞書では本来の姿とか、真価、まじめと出ております。
まじめとはこの真の面目にそって生きることでなくてはなりません。私たちは、自分の人生をふざけたりなまけたりしないで、まじめに過ごして参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「鬼・鬼手仏心」

平成23年9月4日(日)


「鬼・鬼手仏心」
鬼というと人の形をし角をはやし、地獄に堕ちた人たちを散々にいじめ抜き、いためつける赤鬼、青鬼の姿が地獄図などに絵がかれております。慈悲心のかけらもなく、怪力にして残虐非道で常に他人を苦しめるものの喩えに使われるようになりました。

これは印度ではマーラ(魔)中国では鬼、日本では隠などという考えが合さって使われるようになったようです。鬼の呼名種類としては、鬼の外に鬼神、邪鬼、餓鬼、鬼子、夜叉等があります。
鬼は想像上の者でありますが、鬼のような行いや、心情は私たち人間の所行の内に数々見られることは御承知の通りであります。

鬼の反対は仏であります。病院の特に外科医の先生方の行いをよく鬼手仏心と申します。つまり患者の体を思い切ってメスを入れ切り開き患部を取り除く行為は正に鬼のような行為であります。そうした思いきったおそろしいことは患者の命をどんなことをしても救い、苦痛をやわらげようとする医師としての使命感、大慈悲をもってなさることで仏心そのものであるということになります。

昭憲皇太后に歌の道をもってお仕えした
税所敦子という方の姑さんは大変意地の悪い人で嫁の才能や評判をねたみ嫁いびりをしておりました。
ある日私が下の句を読むから上の句をつけてくれといって「鬼婆なりの人は言うなり」を示して嫁いびりをしました。敦子さんは少しもおどろかず筆をとると「仏にもまさる心と知らずして」と詠み姑の意地悪さ見事にかわしました。それからは姑さんは仏のような慈悲深い人になったそうです。
私たちは自分の心の角をとり、鬼心をおこさぬよう日々を反省して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

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