GOZENSAMAcom 

御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2012年01月

「荘 厳」(そうごん)



「荘厳」
 
 

仏前荘厳とか内陣荘厳とかいわれますように、仏様をお祀りするために儀軌(仏の祀り方を記した経典)に従って、仏具・灯明・供花・供物を配置することであります。

荘厳とは辞典には「重々しく威厳があって立派なこと」「みごとで厳かなこと」と記されておりますが、仏具等々で唯外側だけを美しく飾ることではなく、道場を美しく整え飾って、心をこめて拝む事でなくてはなりません。
私達が仏様や先祖を拝むのは、拝む事によって私達自身が仏となり、あるいは先祖が仏になるようにと願って拝むのであります。

仏になるということは、生きている私達にとっては「人格の完成」をめざすことであり、故人にとっては「生命の完成」を意味しております。

では何故仏様をお祀りするのに仏前を厳かに美しく飾るのかと申せば、美しく厳かな「仏・菩薩の生命」即ち仏様の美しい心・大きな働きを私達に具象化し、形として現わすためであります。「三界は唯心の所現」(この世の中の現象は自分の心のあらわれである)といわれるように、私達の日々の生き方は、自分の内側(精神)の反映(現れ)に外ならないといわれております。

仏前の荘厳を通じて、私達はまず我が心を荘厳し、仏(人格の完成)を目指してつとめることによって、大安心(本当の安らぎ)を得られるのであると存じます。
大本山護国寺貫首 岡本永司

明日は文化財防火デー


「冷暖(煖)自知」(れいだんじち)

水が温かいか冷たいかは自分が自らに飲んでみたり、手を入れたりすることによってはじめて感得することが出来るように、「おさとり」とはどんなものかは自分で実際に実践してはじめて会得し、知ることが出来るものであります。

これを「冷暖自知」という仏教語で表現しております。
「おさとりはすばらしいもの」だとか、「こうしておさとりを得た」とか、その他「おさとり」に関する事は仏典の各処に書かれておりますが、それは悟りのことを「
内証」(ないしょう)と申すように、「内証」(ないしょ)にしておくもので他人にいくら説明しても、その真実を伝えることは出来ません。

人間には他人にいくら頼んでも力になってもらえない事が沢山あります。
例えば他人に食べてもらっても自分の腹がふくれるわけでなく、人にいくら勉強してもらっても自分の頭がよくなるわけではありません。悟った人の話を聞くだけでは自分が悟れるわけではありません。

遺教経」(ゆいきょうぎょう)に「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服は医の咎(とが)にあらず」とあるようにお釈迦様の教えを自ら実践してはじめて真理を知るものであります。

大本山護国寺 貫
首 岡本永司

「大乗仏教と小乗仏教」


大乗仏教と小乗仏教

 仏教の大きな流れの中で大乗仏教と小乗仏教という二つの考え方があります。よく皆様が「この際大乗的見地に立って」とか「大乗の精神で」などと使われます。この二つの流れについてお話を申し上げます。


大乗とは字の如く大きな乗物ということで梵語マハナヤの訳語であります。お釈迦様がおさとりを開かれて仏教をお説きになった時、まず自分が修行を重ねてさとりを得ることを最も重要とされました。その為に修行の方法や、様々な戒律を設けてきびしく自己規制をされました。釈迦滅後も弟子達はその教えをかたく守って修行をつづけたのであります。つまり自分だけのさとりへの追究をして行こうという流れであり、これを小乗仏教(ヒナヤナ)と称するようになりました。

しかし時代を経るにつれて、自分だけのさとりにとらわれることなく、もっと大勢の人達がさとりを聞き安心を得べきであるとの考えが強くおきて参りました。これが大乗仏教の流れであります。例えば目的地に到着するのに自転車では一人しか来れません。バスや電車では一返に大勢の人が目的地に行けます。この考え方がヒマラヤを越えて中国、朝鮮、日本に伝来されました。これを北伝仏教と申します。一方お釈迦様の定められた規律をしっかりそのまま守って行く考えがビルマ、タイ、カンボジア等に伝わりこれを南伝仏教と申しております。

この大乗仏教は前述のようにたくさんの人々をさとりに導かんとする教えであり、しかも「己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さん」とする菩薩の行願を持つ教えであります。このことから自己の立場を捨て大局的にものを考えようとすることから大乗的見地というようになり、小さなことにこだわらず、大勢の人の安心を考えようとする行き方であり、自分のことで精一杯というのが小乗ということになります。

唯し大乗仏教がすぐれていて、小乗仏教は劣っているなどという考えは大変間違った考えであって自己の完成を第一に目指すことも、大勢の人々の安心を目指して精進することも共にお釈迦様の大切な教えであることには変りありません。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「志願・念願」




「志 願・念 願」

 

 新年になると多くの人々が神社や仏閣に参拝して一年の無事、家族の息災などさまざまな願いをし、その成就を念ぜられます。勿論それ等は人情として当然のことであり決してせめられることではありません。しかしそれだけで止っていては本当の願いにはなりません。願いとは求めることを定め、それを得ようとすることを指しますが、本来の願いは仏菩薩の発された尊い願いであります。阿弥陀如来の四十八願や薬師如来の十二上願をはじめ仏様は私たち衆生の迷ったり苦しんだりしている様子を見て何とかしてその苦難を救うべく願いを立てられました。そのような心の底から志を立て切に願うことを志願と申しております。この志願は、戦争の志願兵とか、入学志願者などと俗に使われていますが抜苦与楽の仏の悲願と同じく大変奥の深い意味を持っておるのであります。法華経に「我等如来の知見を志願す」とあるように、願わくは仏様のような智慧を得たいという願いを申しております。そしてこの思いを常に心に持ちその実現を願うことを念願と申します。よく「念願がかなって合格したい」などと使われますが、この念願も仏様の念願のような立派なものでありたいものであります。少しでも苦しみ悩む者を救わんとする願いを持ち、仏様に願いをかけ念願しその成就に向って精進することで仏天の加護を得て満願の日を迎えることが出来、その願いのかなうことを満願と言い、その行の最終日を結願と申します。経の最後に願くは此の功徳を以って一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことをとなえますが、それが私たちの志願であり、念願であります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

大般若会

仁王会(にんのうえ)

平成24年1月1日 修正会

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

http://www.youtube.com/watch?v=Ca0N4DCh8FQ
  • ライブドアブログ