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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2012年05月

慈悲


 慈悲はサンスクリット語で「マイトリー・カルナー」と申します。「マイトリー」とは友情とか友誼ということでこれは特定の人にだけもつ友情ではなくて、凡ての人に平等に持つ友情、友誼ということであります。

「カルナー」は悲しむ、痛むという意味で悲は鳥の羽が動かないで苦しむ有様を示している文字であります。「非の心」の反対は「是の心」と考えられます。是の心とは常に自分を中心とし自分の行いや考えを是即ちよしとし他を責める心であり、非の心とは自分の在り方や考え自ら責めて謙虚に反省する心がまえといえます。

自分の至らぬところ、自らの欠点を認めること自分の非を知ることが出来ればいたずらに他を責めることは出来ません。互いに助け合い手をたずさえて精進して行くことが出来るようになるはずであります。

経に苦を抜くを慈といい、楽を与えるを悲とす。即ち抜苦与楽なりとありますが、自分の心に慈悲心の種を植え育てて参るようつとめて参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「妙・絶妙」


 

 「なんとも妙な話だ」とか「体操の選手が絶妙の演技を見せた」とか不断に使っている妙という言葉ですが、妙とは何でしょうか。

妙のつく仏教語はたくさんあります。妙音・妙見・妙典・妙法・妙高山など数えればきりがありません。妙とは「較べるものが無い程すぐれている」とか「頭で思いはかることが無い程出来ない程すばらしい」ということを表現する形容詞で、妙えなる教である仏教を妙経などと申します。
しかしこの妙すら言い足りないほどすばらしかったらどう表現しますか。そうです前述の絶妙といいます。「妙を喚んで絶となす。絶はこれ妙の異名なり」と法華玄義にあるように絶妙とは同義語を二つ重ねることによって意味をぐんと強める言葉になります。帰るといわずに帰還と言ったり、衣と服を重ねて衣服というようなものであります。絶は絶対ということで相対の反対語で比較することが無いという点で妙と同義語になります。

しかし今は「あの人は妙な人だ」前述の「妙な話だ」という時は比較するもののない程すぐれたという意味ではなく、普通でない、変ってるという悪い方に使われるようになってしまいました。本来誉めことばであったものが悪い使われ方になったのは沢山あります。貴様、無学、無分別などなどであり、注意したいものであります。言葉本来の尊さ美しさを使いつづけたいとおもいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

怒らず 恚らず



「売り言葉に買い言葉」という言葉があります。相手から受けた暴言に対し、こちらも同じような暴言をはいて言い返しついには喧嘩になってしまいます。
いずれにしても同じレベルで言い合い、言い返していて、互いの立場、互いの意地がぶつかり合い硬直状態におちいってしまいます。
こうしたかたくなな心は一朝一夕には、ほぐれずいつまでも私達の心を悩ませます。

「水よく石をうがつ」という言葉がありますが、一滴一滴たえまなく水が落ちてついには固い石にも穴をあけるようになる意味であります。
私達の心はともすると自分は正しい、自分は間違っていないと思い込む自分への執着心があり、それが硬直しがちであります。
執着心を捨てろと言われてもそう簡単に捨て切れないのが本心であります。
そうした時に毎日毎日少しずつでも仏の教えを思い起こし、かみしめ実行して行くことで次第にものの考え方、思い込みも変り相手をゆるす心が生れて参ります。つまり大きな包容力が育ち豊かな心になって参ります。

大きな心とは決して鈍感になるということではなく硬直し、固まった心を次第にほぐし、柔軟な心、やわらかく物事に処する心が生まれ、一日一日が新たな喜びをもって迎えられるようになることであります。仏教学の大家金子大栄先生は「人生はやり直すことは出来ないが見直すことは出来る」と申しておられます。人や物に対するに同じレベル同じ立場で処するのではなく別の角度、違った立場で見直す柔軟な心を育てて参りたいものであります。
 大本山護国寺貫首 岡本永司


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