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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

2012年06月

面目 真面目


「面目」とは辞書を引くと世間に対するていさい。人に合わせる顔などと出ております。私たちは普段「面目を施す」「面目丸潰れ」「面目ない」などという言葉を耳にします。又漢音で「ボク」と読み呉音で「モク」と読み「真面目」などと使っております。

この面目とは大切な仏教語で、面とはおもてとか、つらというように私たちの顔のことであります。顔即ち面には、目、耳、鼻、口等大切な人間の感覚器官が集まっておることはご承知の通りであります。さらに目はその顔の中心にあって身心の窓口となっているところで、目を見ればその人の心や体の具合、状態が推測出来るといわれ「目は口ほどにものを言い」とあるように、何を考えているか見当がつきます。面目とはこの面と目を重ねたもので、私たちにとって一番大切なもの、つまり本性を指す語、で自分が本来持っている仏性のことであります。

これは大宇宙の生命の一つとして生きる私たちの真のありかたを指しております。この面目を正に真面目にいきることの重要なことを申しております。この真面目は辞書では本来の姿とか、真価、まじめと出ております。まじめとはこの真の面目にそって生きることでなくてはなりません。私たちは、自分の人生をふざけたりなまけたりしないで、まじめに過ごして参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

性善・性悪・無記


 昔から人間は本来善であるか悪であるかということが洋の東西を問わず考えられて参りました。即ち人間の性は善であるという性善説と、いや人間の本性は悪なのだという性悪説であります。ところで仏教ではこの人間の心、人間の生き方はじめ人生の行方についてどう考えているかと申せば善とか悪とかいうような決定したものはないのであると説いております。白紙状態であるとしこれを「無記」であるとしております。これを「無記性」と申します。このように人間の本性は始めから決まっているものではなく無自性であるという考えは大変大切なことであると申せます。なぜならば始めからどちらかに決まっているものであれば善に向って精進努力することも悪をいましめることも無意味なことになります。決まっていないからこそ自らの心をきたえ調べて人生を送る努力が求められることになるのであります。丁度水はそれを入れる器によって如何様にも変わります。私達の心即ち性も縁を得て変わる人々との関係或いは住む環境や風土によって変って行くことはご承知の通りであります。無記なるが故にどうとでもなる自性を仏のみ教えを頂いて豊かな美しいものに向ってつとめて参りたいものであります。大本山護国寺貫首 岡本永司

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