平成23年1月9日(日)

本日は平成23年になり初めての「朝マイルの会」でしたので、張り切ってgozennsamaのお話を撮影したのですが、ビデオカメラのメモリーがいっぱいになっていたのを気づかずに録画をしていて、途中でビデオが止まってしまい最後まで映像を収めることができませんでした。

おつとめ後のお茶の時間に録画を確認しつつ過去の不要な映像を消去していたら、消したつもりはないのですが本日撮影した映像まで消してしまったようです。きちんと操作したつもりなのですが消えてしまいました。

そんな訳で、本日は映像はありません。プリントだけでお赦しください。
ですが、今日のgozennsamaの「不思議」な話しは過去に何度かお話されている内容でしたね。修養会の方でしたら既に何度か聞いたことがあると思います。

gozennsamaのお話しのなかでも私はこの「不思議」なお話しは大好きなので朝マイルの皆様にもお伝えしたかったのですが、またいつかの機会を楽しみにしていて下さいね。

お詫びに、先日川崎大師へgozensamaと初詣に行って参りました。その時の映像を限定公開いたしましたので。どうぞ皆様、ご一緒にバーチャル詣でをお楽しみ下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=juM2gnR7cdk



「不 思 議」
不思議とは不可思議の略で考えや思いの領域を越え計り知ることの出来ないことを申します。又、数取りの上で百、千、万、億、兆、京と数えていって最大最後の数取を不可思議とし、下に数えていって最後の数取が「清浄」といわれております。

いずれにしても私達をとりまく様々な出来ごとでも不思議なことが数限りなく満ちていることがわかります。

人と人との出会い、夫婦、親子の縁をとって見ても、思慮や言葉に言い表すことの出来ない縁によるものであることが思い当たります。ましてや天地自然の動き、動、植物のいのちの働きなどなど私達の思慮を越えたもの即ち不思議な計らいによるものであり、私達のとうてい思い及ばないことであることがわかります。

不思議とは本来、仏の功徳や智慧の働きを表すために使われた言葉であり、それは思い計ることも言葉に表すことの出来ないものであるということであります。
私達は学んだり、修行をしたりすればする程、自分の至らなさ、おろかさがわかって来ると言われます。
天台宗を開かれた伝教大師は自らを愚の中の極愚と申され、親鸞上人はご自身を愚禿と言われ、良寛上人は大愚の良寛と申されました。
修証義には「仏の功徳は大地、草木、瓦礫にまで至っており私達は最上甚深不可思議な仏の力によって生かされているのである」と説かれております。

私達はこれ等の先徳にならって自らの至らなさ、おろかさを自覚し精進して摩訶不思議な佛の功徳を頂いて参りたいものであります。

 大本山護国寺 貫首 岡本永司