「志 願・念 願」

 

 新年になると多くの人々が神社や仏閣に参拝して一年の無事、家族の息災などさまざまな願いをし、その成就を念ぜられます。勿論それ等は人情として当然のことであり決してせめられることではありません。しかしそれだけで止っていては本当の願いにはなりません。願いとは求めることを定め、それを得ようとすることを指しますが、本来の願いは仏菩薩の発された尊い願いであります。阿弥陀如来の四十八願や薬師如来の十二上願をはじめ仏様は私たち衆生の迷ったり苦しんだりしている様子を見て何とかしてその苦難を救うべく願いを立てられました。そのような心の底から志を立て切に願うことを志願と申しております。この志願は、戦争の志願兵とか、入学志願者などと俗に使われていますが抜苦与楽の仏の悲願と同じく大変奥の深い意味を持っておるのであります。法華経に「我等如来の知見を志願す」とあるように、願わくは仏様のような智慧を得たいという願いを申しております。そしてこの思いを常に心に持ちその実現を願うことを念願と申します。よく「念願がかなって合格したい」などと使われますが、この念願も仏様の念願のような立派なものでありたいものであります。少しでも苦しみ悩む者を救わんとする願いを持ち、仏様に願いをかけ念願しその成就に向って精進することで仏天の加護を得て満願の日を迎えることが出来、その願いのかなうことを満願と言い、その行の最終日を結願と申します。経の最後に願くは此の功徳を以って一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことをとなえますが、それが私たちの志願であり、念願であります。
大本山護国寺貫首 岡本永司