「なんとも妙な話だ」とか「体操の選手が絶妙の演技を見せた」とか不断に使っている妙という言葉ですが、妙とは何でしょうか。

妙のつく仏教語はたくさんあります。妙音・妙見・妙典・妙法・妙高山など数えればきりがありません。妙とは「較べるものが無い程すぐれている」とか「頭で思いはかることが無い程出来ない程すばらしい」ということを表現する形容詞で、妙えなる教である仏教を妙経などと申します。
しかしこの妙すら言い足りないほどすばらしかったらどう表現しますか。そうです前述の絶妙といいます。「妙を喚んで絶となす。絶はこれ妙の異名なり」と法華玄義にあるように絶妙とは同義語を二つ重ねることによって意味をぐんと強める言葉になります。帰るといわずに帰還と言ったり、衣と服を重ねて衣服というようなものであります。絶は絶対ということで相対の反対語で比較することが無いという点で妙と同義語になります。

しかし今は「あの人は妙な人だ」前述の「妙な話だ」という時は比較するもののない程すぐれたという意味ではなく、普通でない、変ってるという悪い方に使われるようになってしまいました。本来誉めことばであったものが悪い使われ方になったのは沢山あります。貴様、無学、無分別などなどであり、注意したいものであります。言葉本来の尊さ美しさを使いつづけたいとおもいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司