GOZENSAMAcom 

御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

日曜法話

初心


 私たちはよく「初心にかえって」とか、「初心忘れるべからず」とか、自動車免許とりたての人は、初心者マークをつけて車の運転をしております。この初心というのは、未だ習い始めて不なれであり、未熟であるということと、物事を始めた時の純粋で、謙虚な気持、というように、二通りに使われたり、考えられたりしております。しかしこの二通りは、実は一つのことで、私たちが直面する凡てのことにあてはまることであります。そして初心とは、大切な仏教語でもあります。

即ち初発心(しょほっしん)のことで、発心(ほっしん)とは発菩提心(ほつぼだいしん)の略であります。
仏の教えを習い、実践して行こうと、初めて発した心ということであります。従って入りたてで、まことに未熟であるが、純粋で一生懸命に仏道を志す心が、初心の本来の意味になります。
この初心が一般に使われるようになったのは仏教に源を持つ能楽を大成された世阿弥がその能楽論書「花鏡」の中で「是非の初心忘るべからず時々の初心忘るべからず老後の初心忘るべからず」の句を残され、そこから初心の句が使われるようになったようであります。
世阿弥は、能を習いはじめた時の芸に対する心を忘れてはならぬと戒めたのですが、そこから何事に於ても最初の心持、真剣さ、そして目的を忘れてはならぬということになりました。私たちはややもすると初めの内は真剣に心をつくしますが、しばらくすると油断しがちであります。即ち初心忘れがちになり失敗することになりがちです。私たち仏教徒は、本来の初心の意味をしっかりと受止め菩提の心をおこし、仏道を歩んで参りたいと念じております。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「心 の 転 倒 予 防」


 倒・顚 (さかさにする、ころぶ、狼狽)

心の転倒の原因を仏教では罣礙(心を覆うもの、さまたげ、邪魔)と申しております。

 

 (悪い心の働き、妄想、心身をわずらい悩ます精神作用)

   

    (限りなきむさぼり、とらわれ、強い欲望)

    (はげしい怒り、強いねたみ、うらみ心)

    (おろかな心、妄念、正しい判断が出来ない心)

これ等が私達の心を汚し、時には心身を亡す毒素であると説かれております。

此の煩悩により心が転倒する四ヶ条を示して常楽我浄の四顚倒をあげております。

一、        いつまでもいつまでもと願う心、いつまでもつづくと願う心。

二、       楽しい人生でありたい、苦しみや不都合をいやがる心。

三、       常に自分中心で考え行動し、我を通さんとする心。

四、       自分は善であり、正しいとし非難されることはないと思う心。

これ等は考えてみると私達の理想とするところであり、その実現に向って絶えず頑張っているのが私達人間の日常の姿であると申せます。しかしこれ等は到底満すことの出来ないことであり、正に道理に反する心のつまずきの原因となっていて、三毒煩悩や四顚倒の心の働きに振り廻され様々な苦悩が生じて来ると仏典には説かれております。仏教経典はこの私達のわがままな心の転倒を防ぐ方法を一生懸命説いていると申しても過言ではありません。その一つとして少欲知足の生き方を示しております。遺教経に「少欲を行ずるものは心即ち坦然として憂畏なし」「若し諸々の苦悩を脱せんと欲せば常に知足を行すべし」とのべ限りない欲望にブレーキをかけ制御することで心の顚倒を防ぐ手立てとせよと説いております。

大本山護国寺貫首 岡本永司

怒らず 恚らず



「売り言葉に買い言葉」という言葉があります。相手から受けた暴言に対し、こちらも同じような暴言をはいて言い返しついには喧嘩になってしまいます。
いずれにしても同じレベルで言い合い、言い返していて、互いの立場、互いの意地がぶつかり合い硬直状態におちいってしまいます。
こうしたかたくなな心は一朝一夕には、ほぐれずいつまでも私達の心を悩ませます。

「水よく石をうがつ」という言葉がありますが、一滴一滴たえまなく水が落ちてついには固い石にも穴をあけるようになる意味であります。
私達の心はともすると自分は正しい、自分は間違っていないと思い込む自分への執着心があり、それが硬直しがちであります。
執着心を捨てろと言われてもそう簡単に捨て切れないのが本心であります。
そうした時に毎日毎日少しずつでも仏の教えを思い起こし、かみしめ実行して行くことで次第にものの考え方、思い込みも変り相手をゆるす心が生れて参ります。つまり大きな包容力が育ち豊かな心になって参ります。

大きな心とは決して鈍感になるということではなく硬直し、固まった心を次第にほぐし、柔軟な心、やわらかく物事に処する心が生まれ、一日一日が新たな喜びをもって迎えられるようになることであります。仏教学の大家金子大栄先生は「人生はやり直すことは出来ないが見直すことは出来る」と申しておられます。人や物に対するに同じレベル同じ立場で処するのではなく別の角度、違った立場で見直す柔軟な心を育てて参りたいものであります。
 大本山護国寺貫首 岡本永司


仏教日常語


 

道 楽

 仏道修行によって得られたさとりのたのしみをいいます。阿育王経巻八に「今己得道楽」とあり、又法華経にも「道を以て楽を受け」とあるように法悦の境界をいうのである。現在の日常語で使われている意味とは大変かけはなれてしまっております。「道楽息子」 「食道楽」 「道楽者」

 

娯 楽

本来は増一阿含経に「迷あり、娯楽を以て断ずることを得」とあるように本来は精神的な安らかさと楽しさを覚えることでありました。それが次第に音楽、歌舞、演劇を自ら演じたり見たり聞いたりする楽しみに変わってきました。原始仏教教団ではこれ等は一切許されなかったが大乗仏教に至り大衆に普及する為に仏塔礼拝の折など音楽歌舞が行われました。

 

安 楽

仏の世界の楽しさ心安らかで苦学の無いことをいうが、本来は阿弥陀如来の在す極楽の別名で経に「其の佛の世界を明けて安楽と云ふ」とあり安穏快楽なるさとりの世界をいいます。
 
大本山護国寺貫首 岡本永司

相好・仏頂面


私達は、うれしいこと、たのしいことがあると相好を崩したり、嫌なこと、苦しいことがあると仏頂面になるなど悲喜こもごもな顔つきをします。 にこやかに笑うことを、相好を崩すといいますが、この相好とは何を指す言葉でしょうか。お釈迦様は二千五百年前インドにお生まれになった大聖者ですが、只の人ではない証拠として顔や身体に百二十種のすぐれた特徴を持っておられたと伝えられております。仏教では菩薩の位にある方には更に八十種類のすぐれた特徴があり、また如来の位の方は更に三十二種のすぐれた特徴が加わって、尊くありがたい容姿を持っておられるといっております。これを三十二相、八十種好と申して仏菩薩は、このすべての相と好が欠けることなく全部そなわっているということです。相好具足という言葉がありますが、これは容貌が仏様のようにすぐれた姿、形を表現したものであります。相好を崩すというのはこの相好がほころび崩れること、つまりにこやかに笑うことを申しております。 その反対に仏頂面とは、これも三十二相の一つで、お釈迦様の仏頂から生れたという仏頂尊の顔を申します。この仏は威厳に満ち、きびしい面相をしておられるので、俗に無愛想なふくれっつらを仏頂面というようになりました。 私達は「これが人間の顔か」と疑いたくなるような多くの表情があります。その場その時に応じてさまざまな顔や形を演じております。出来るだけ仏菩薩の相好に近づくようになり、鬼や餓鬼、悪魔の相にならないように心したいものです。 大本山護国寺貫首 岡本永司 【お知らせ】 日曜あさ9時は護国寺へどうぞ。本堂で観音経を唱え、その後、御前様のお話が聞けますよ。毎週日曜あさ9時、護国寺本堂へ直接おいでください。申し込み不要、参加費は無料です。護国寺へは東京メトロ有楽町線護国寺駅下車、1番出口をご利用ください。

「荘 厳」(そうごん)



「荘厳」
 
 

仏前荘厳とか内陣荘厳とかいわれますように、仏様をお祀りするために儀軌(仏の祀り方を記した経典)に従って、仏具・灯明・供花・供物を配置することであります。

荘厳とは辞典には「重々しく威厳があって立派なこと」「みごとで厳かなこと」と記されておりますが、仏具等々で唯外側だけを美しく飾ることではなく、道場を美しく整え飾って、心をこめて拝む事でなくてはなりません。
私達が仏様や先祖を拝むのは、拝む事によって私達自身が仏となり、あるいは先祖が仏になるようにと願って拝むのであります。

仏になるということは、生きている私達にとっては「人格の完成」をめざすことであり、故人にとっては「生命の完成」を意味しております。

では何故仏様をお祀りするのに仏前を厳かに美しく飾るのかと申せば、美しく厳かな「仏・菩薩の生命」即ち仏様の美しい心・大きな働きを私達に具象化し、形として現わすためであります。「三界は唯心の所現」(この世の中の現象は自分の心のあらわれである)といわれるように、私達の日々の生き方は、自分の内側(精神)の反映(現れ)に外ならないといわれております。

仏前の荘厳を通じて、私達はまず我が心を荘厳し、仏(人格の完成)を目指してつとめることによって、大安心(本当の安らぎ)を得られるのであると存じます。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「冷暖(煖)自知」(れいだんじち)

水が温かいか冷たいかは自分が自らに飲んでみたり、手を入れたりすることによってはじめて感得することが出来るように、「おさとり」とはどんなものかは自分で実際に実践してはじめて会得し、知ることが出来るものであります。

これを「冷暖自知」という仏教語で表現しております。
「おさとりはすばらしいもの」だとか、「こうしておさとりを得た」とか、その他「おさとり」に関する事は仏典の各処に書かれておりますが、それは悟りのことを「
内証」(ないしょう)と申すように、「内証」(ないしょ)にしておくもので他人にいくら説明しても、その真実を伝えることは出来ません。

人間には他人にいくら頼んでも力になってもらえない事が沢山あります。
例えば他人に食べてもらっても自分の腹がふくれるわけでなく、人にいくら勉強してもらっても自分の頭がよくなるわけではありません。悟った人の話を聞くだけでは自分が悟れるわけではありません。

遺教経」(ゆいきょうぎょう)に「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服は医の咎(とが)にあらず」とあるようにお釈迦様の教えを自ら実践してはじめて真理を知るものであります。

大本山護国寺 貫
首 岡本永司

「大乗仏教と小乗仏教」


大乗仏教と小乗仏教

 仏教の大きな流れの中で大乗仏教と小乗仏教という二つの考え方があります。よく皆様が「この際大乗的見地に立って」とか「大乗の精神で」などと使われます。この二つの流れについてお話を申し上げます。


大乗とは字の如く大きな乗物ということで梵語マハナヤの訳語であります。お釈迦様がおさとりを開かれて仏教をお説きになった時、まず自分が修行を重ねてさとりを得ることを最も重要とされました。その為に修行の方法や、様々な戒律を設けてきびしく自己規制をされました。釈迦滅後も弟子達はその教えをかたく守って修行をつづけたのであります。つまり自分だけのさとりへの追究をして行こうという流れであり、これを小乗仏教(ヒナヤナ)と称するようになりました。

しかし時代を経るにつれて、自分だけのさとりにとらわれることなく、もっと大勢の人達がさとりを聞き安心を得べきであるとの考えが強くおきて参りました。これが大乗仏教の流れであります。例えば目的地に到着するのに自転車では一人しか来れません。バスや電車では一返に大勢の人が目的地に行けます。この考え方がヒマラヤを越えて中国、朝鮮、日本に伝来されました。これを北伝仏教と申します。一方お釈迦様の定められた規律をしっかりそのまま守って行く考えがビルマ、タイ、カンボジア等に伝わりこれを南伝仏教と申しております。

この大乗仏教は前述のようにたくさんの人々をさとりに導かんとする教えであり、しかも「己れ未だ渡らざる前に、一切衆生を渡さん」とする菩薩の行願を持つ教えであります。このことから自己の立場を捨て大局的にものを考えようとすることから大乗的見地というようになり、小さなことにこだわらず、大勢の人の安心を考えようとする行き方であり、自分のことで精一杯というのが小乗ということになります。

唯し大乗仏教がすぐれていて、小乗仏教は劣っているなどという考えは大変間違った考えであって自己の完成を第一に目指すことも、大勢の人々の安心を目指して精進することも共にお釈迦様の大切な教えであることには変りありません。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「志願・念願」




「志 願・念 願」

 

 新年になると多くの人々が神社や仏閣に参拝して一年の無事、家族の息災などさまざまな願いをし、その成就を念ぜられます。勿論それ等は人情として当然のことであり決してせめられることではありません。しかしそれだけで止っていては本当の願いにはなりません。願いとは求めることを定め、それを得ようとすることを指しますが、本来の願いは仏菩薩の発された尊い願いであります。阿弥陀如来の四十八願や薬師如来の十二上願をはじめ仏様は私たち衆生の迷ったり苦しんだりしている様子を見て何とかしてその苦難を救うべく願いを立てられました。そのような心の底から志を立て切に願うことを志願と申しております。この志願は、戦争の志願兵とか、入学志願者などと俗に使われていますが抜苦与楽の仏の悲願と同じく大変奥の深い意味を持っておるのであります。法華経に「我等如来の知見を志願す」とあるように、願わくは仏様のような智慧を得たいという願いを申しております。そしてこの思いを常に心に持ちその実現を願うことを念願と申します。よく「念願がかなって合格したい」などと使われますが、この念願も仏様の念願のような立派なものでありたいものであります。少しでも苦しみ悩む者を救わんとする願いを持ち、仏様に願いをかけ念願しその成就に向って精進することで仏天の加護を得て満願の日を迎えることが出来、その願いのかなうことを満願と言い、その行の最終日を結願と申します。経の最後に願くは此の功徳を以って一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことをとなえますが、それが私たちの志願であり、念願であります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

大般若会

「忍 土」


「忍 土」 

 

 お釈迦さまは私たちの住む此の世(娑婆世界)は自分の思うようにならないこと、願うようにならないことが多く苦しみに満ちているとして仏教の大切な教えの一つとして「一切皆苦」と申されました。

二千五百年前の時代も現代もこの真理、この有様は全く変わりません。否むしろ現代のように科学技術が発展し人間生活が複雑化していくにつれてこの苦は根本的な苦をもたらす生・老・病・死の四苦を含めて更に深く広がって来ているように思われます。このように私たちが生きて行く上で様々な苦難や困難、悲しみを受けて行く定めであるとする此の世を仏教では忍土と申しております。

限り無い苦難に打ちひしがれることがなく、それに耐え忍ばざるを得ないのが人の世の定めであるとしっかりと悟ることで覚悟が出来、一切の苦を乗り越えて行く力が養われるのであることを教えておられるのであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

おしゃかさまがおさとりをひらいた日

12月8日は成道会です。

八部衆



「八 部 衆

 

 インド神話に出て来る神々の中で仏教に採り入れられ、仏法守護となった八種の神々である。

 

一、天 インド神話の総称。天は梵天、帝釈天のように鬼神の中でも最も果報の部類に属している。

 

二、竜 水中に住み、雨を呼んで大地に豊穣をもたらす神、蛇を神格化した像、中国、朝鮮、日本では霊獣で想像上の動物、仏教では竜王として仏法守護の神となる。

 

三、夜叉 梵名ヤクシャの音写、捷疾鬼とも呼ばれている。インド神話の中で人を害する暴悪の鬼だが、仏教に採り入れられ毘沙門天の家来となり、仏法守護の鬼神となる。

 

四、乾闥婆 梵名ガンダルヴァの音写で尋香、食香などと漢訳されている。インド神話で香を食べる妖精で音楽の神で、仏教に採り入れられ、胎児、小児の守護神となり帝釈天に仕える、獅子冠をつけているのが特徴である

 

五、阿修羅 梵名アスラの音写で、非天、不端天とも訳される。修羅ともいう。インド神話で戦争を好む神で常に帝釈天と争っていた。仏様に入り守護神となる。

 

六、迦楼羅 梵名ガルダの音写でインド神話に出て来る大鳥で悪竜を常食する鳥の王で、仏教に採り入れられて梵天大自在天、文殊などの化身とされ仏法守護の神となった、金翅鳥と同一視されている。不動明王の火焔光背をカルラ焔というのはこの鳥が羽をひろげた形に似ているところから来ている。

 

七、緊那羅 梵名キンナーラの音写で馬頭人身の鬼で天上で音楽の神とされている。美しい声をもつ歌神、乾闥婆と並んで音楽神として八部衆となる。

 

八、摩睺羅伽 梵名マホラガの音写で大蛇を意味する無足で地をはう竜といい、体は人、首蛇の姿で音楽の神として仏法守護の神となる。
 
 大本山護国寺貫首 岡本永司

依怙贔屓

「依 怙 贔 屓」(えこひいき)

 よく一般に依怙贔屓などという言葉が使われます。辞典によると一方的にばかりひいきするとあり贔屓は特に気に入って目をかけ、ひきたてるなどとあり人を差別するようなあま­り感心した言葉ではありません。

 しかしこの依怙というのは大事な仏教語であります。依とは「よるべ」「よりどころ」怙とは「たのみとする」「ささえとする」ということで、
­子供が親を心だのみにし、生徒が教師を心のよりどころとするような関係を申しております。

 仏典の中に人生の荒波にもまれてたよるすべのない衆生に対し仏様が私達の依怙にな
­るということが記されております。観音経の中に「観世音浄聖於苦悩死厄能為作依怙」とあるように私達が苦しみ悩んでいる時や、病気や死に直面して不安にさいなまれておる時­、観音様は私達の依怙になって下さることを誓っておられます。

 仏様は人間のように依怙贔屓をなさいませんので、私達は安心して仏様によりそいたのみにすることが出来ます。
­又仏様ばかりではなく高徳の祖師の方々も皆私達の依怙となって下さっております。

 道元禅師は中国の正覚大師慧可禅師を「まことにこれ人天の大依怙なり人天の大導師なり」と
­敬っておられますが、道元禅師も弘法大師、伝教大師等の方々も日本人の大依怙になられました。私達も修行を重ねて出来れば人の依怙になりたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「無邪気・可愛い」


無邪気・可愛い

 「子供は無邪気でかわいい」などと無邪気の代表が幼い子供や赤ちゃんを表すように使われております。邪気とは煩悩による心のよごれを申しますので無邪気とはそうした貪瞋痴の三毒煩悩にけがされていない「きれいな心のまま」ということになります。特に赤ちゃんはいずれも無邪気そのものと言えます。

 つづいて「かわいい」とは漢字では可愛となり、文字通り愛すべきものを指しており、そこから子供ばかりでなく女性の容姿の美しいことを指すようにもなりました。この可愛を語幹として「可愛がる」という動詞が生れました。
 また可愛がるの反対語は「いじめる」ですが、時によってはそれが「可愛がってやる」などと使われることもあります。

 さて赤ちゃんは無邪気で可愛いものといわれますが、それが大人になると何故無邪気でなくなるのでしょうか。一般に弱いもの、幼いものは生きのびるために可愛がられるようになっておりますが、それが成長し生命力が盛んになって来ると無邪気でなくなるのでしょうか。
 しかしそれでは正に可愛そうと申すしかありません。成長し、生命力がつこうが心がすなおでよごれていなければ可愛い存在であると申せます。

 「みどり子の次第次第に智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき」という古歌があります。大人になっても煩悩まで成長させないように気をつけて参りたいものであります。
 その人に出会うとほほえんでしまうような。そしてその人が来ると心なごむような人もたくさんいらっしゃいます。伝教大師は「一隅を照らす者これ国の宝なり」と申されております。凡てを心得てなお邪気を抑えるような努力をつづけて可愛がられるような日々を送りたいものであります。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「現世安穏・後世善処」



現世安穏・後世善処
 

 安穏と共に使われる言葉に善処があります。「現世安穏 後世善処」という句はよく知られている句ですが、これは妙法蓮華経の中の「諸々の衆生この法を聞き終って現世には安穏にして、後には善処に生ず」より出ております。
 現世とは勿論私達の住むこの世即ち娑婆世界のことで、善処とは善い行をつむことによって行くことの出来る善い処即ち仏国土、浄土のことであります。
 此のお経の教えを聞けば此の世では安穏な日々が送れ、死後は極楽浄土に行くことが出来るということになります。よく「あの世なんか信じられない、あるはずがない」などという人がおります。現代の科学思想や様々な知識を得た人にとってかかる考えになるのも無理のないことと思います。しかし本当に「あの世なんか無く、死んでしまえばおしまい」ということになると、今の自分はどうなるかという切なくうちひしがれた、荒れた心になってしまいます。私達は心の奥底にあの世を信じ先に逝った人々の冥福を祈り、自分もまたあの世に行くことを思って生きておるのであります。
 今日が終ればあの世に行くのであると自覚すれば、いたずらに死をおそれたり、切羽つまった気持ちで過す必要はありません。考えてみますと私達の一生は永遠のいのちの流れの中のほんのわずかな瞬間であると思います。そのような心の余裕をもって過して参りたいものであります。唯あの世に持込むのはこの世の善悪の業のみであることを心得て出来るならば善業を積み重ねて、そのご縁で後世善処に行けるように生きることが現世安穏への道であるといえます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「わが心は十界にある」

わが心は十界にある

 
 弘法大師は「唐招提寺の達
嚫の文」の中で「六大の所遍皆是れわが身なり、十界の所有竝に是れわが心なり」と記されております。これは「私たちの体は六大より構成されており、私たちの心には十界がある」という句です。
 即ち私たちの体は地・水・火・空・風の五大(要素)と心(意識)を加えて六つの要素からなり、十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道と仏の世界である声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖であります。私たちの心の変化はこの十種類にわたっていると申しておられるのであります。
 
 西洋のジキルとハイドではありませんが、人間の心は常にコロコロと移り変わって、神や仏のような心の時もあり、阿修羅のように鬼のような心の時もあり、餓鬼畜生にもまさるおそろしい心に住する時もあると申せます。慈悲心をもって養っていた里子をいじめ殺してしまった事件が最近報じられたり、我が子を自分の快楽のために飢死させてしまう親もおります。なんともやりきれない思いでいっぱいであります。
 京都大学の類人猿研究所の所長をされていた河合雅雄先生はオラウータンは人間よりすばらしいところがあると次のように言っておられます。「人間は自分と気の合った人がくると食物を分けて与えますが気の合わない人が来るとかくしてしまいます。オラウータンは仲のよい仲間がくると食べているバナナを半分あげる。気の合わない仲間がくるとバナナを少しあげる。嫌な奴が来るとバナナの皮を半分あげる。しかし何もあげないことはない」これ等から考えますと人間はオラウータンよりも劣るということになってしまいます。
 大本山護国寺貫首 岡本永司

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」

「彼岸会(パーラミーター到彼岸)」
 
六波羅密行(六度行)

1,布施欲張らないこと。そうすると人に物や心をあげることができる。」
仏教では布施を最も大切な行としておりますが、それには施者・受者・施物の三つが清浄なものではなくてはならぬとしており、これを三輪清浄といっております。他に布施(ほどこし)をさせて頂くことで自分の心が豊かになる。(喜捨)

 

2,持戒約束をまもること。そうすると人に信用されるようになる。」
仏法には五戒・十善戒などがあるけれども私達凡夫にはとてもそれを完全に守ることは出来ません。そうした自分の弱さ、至らなさを強く反省し許しを乞う行。

 

3,忍辱怒らないこと。そうすると人と争わなくなる。」 
仏教ではこの世の中を娑婆、忍土と申しておりますが、私達は生きて行く上でどうしても他に迷惑をかけずには生きて行けません。お互いに許し合うことの行。


4,精進
怠けないこと。そうすると仕事がすすみ、はかどる。」 私達はとかく何事にも一生懸命頑張り努力することが求められますが、仏教では頑張るというのはあまりよくないこととしております。他をおしのけるのではなく、頑張らずにゆったりとした、ゆとりのある生き方即ち「中道」を行けと申しております。

 

5,禅定気をちらさないこと。そうすると心が落ちつく。」
これは精神を一点に集中するのではなく、世の中の常識を離れて心を広く開放して行くことを目指します。


6,智慧よく考えること。そうすると物事がよくわかって来る。」
以上五つの波羅密行の実践により世間の知恵(人間の物差し)をはなれて、凡てを差別なく見通す仏の物差しを得ることを申しております。

  お彼岸の七日間は亡くなられたご先祖さまに感謝すると共に、この六つのことを守りますとお誓いする。春秋の「生活のくぎり」の期間であり、私達の日常生活への反省と努力をすることであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「面目 真面目」

「面目 真面目」

「面目」とは辞書を引くと世間に対するていさい。人に合わせる顔などと出ております。私たちは普段「面目を施す」「面目丸潰れ」「面目ない」などという言葉を耳にします。

又漢音で「ボク」と読み呉音で「モク」と読み「真面目」などと使っております。この面目とは大切な仏教語で、面とはおもてとか、つらというように私たちの顔のことであります。

顔即ち面には、目、耳、鼻、口等大切な人間の感覚器官が集まっておることはご承知の通りであります。さらに目はその顔の中心にあって身心の窓口となっているところで、目を見ればその人の心や体の具合、状態が推測出来るといわれ「目は口ほどにものを言い」とあるように、何を考えているか見当がつきます。

面目とはこの面と目を重ねたもので、私たちにとって一番大切なもの、つまり本性を指す語、で自分が本来持っている仏性のことであります。これは大宇宙の生命の一つとして生きる私たちの真のありかたを指しております。

この面目を正に真面目にいきることの重要なことを申しております。この真面目は辞書では本来の姿とか、真価、まじめと出ております。
まじめとはこの真の面目にそって生きることでなくてはなりません。私たちは、自分の人生をふざけたりなまけたりしないで、まじめに過ごして参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「鬼・鬼手仏心」

平成23年9月4日(日)


「鬼・鬼手仏心」
鬼というと人の形をし角をはやし、地獄に堕ちた人たちを散々にいじめ抜き、いためつける赤鬼、青鬼の姿が地獄図などに絵がかれております。慈悲心のかけらもなく、怪力にして残虐非道で常に他人を苦しめるものの喩えに使われるようになりました。

これは印度ではマーラ(魔)中国では鬼、日本では隠などという考えが合さって使われるようになったようです。鬼の呼名種類としては、鬼の外に鬼神、邪鬼、餓鬼、鬼子、夜叉等があります。
鬼は想像上の者でありますが、鬼のような行いや、心情は私たち人間の所行の内に数々見られることは御承知の通りであります。

鬼の反対は仏であります。病院の特に外科医の先生方の行いをよく鬼手仏心と申します。つまり患者の体を思い切ってメスを入れ切り開き患部を取り除く行為は正に鬼のような行為であります。そうした思いきったおそろしいことは患者の命をどんなことをしても救い、苦痛をやわらげようとする医師としての使命感、大慈悲をもってなさることで仏心そのものであるということになります。

昭憲皇太后に歌の道をもってお仕えした
税所敦子という方の姑さんは大変意地の悪い人で嫁の才能や評判をねたみ嫁いびりをしておりました。
ある日私が下の句を読むから上の句をつけてくれといって「鬼婆なりの人は言うなり」を示して嫁いびりをしました。敦子さんは少しもおどろかず筆をとると「仏にもまさる心と知らずして」と詠み姑の意地悪さ見事にかわしました。それからは姑さんは仏のような慈悲深い人になったそうです。
私たちは自分の心の角をとり、鬼心をおこさぬよう日々を反省して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

  • ライブドアブログ