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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

日曜法話

「舎 利 禮 しゃりらい」

平成23年8月28日(日)

「舎 利 禮」 しゃりらい
 

(いっ)(しん)(ちょう)(らい) (まん)(とく)(えん)(まん) (しゃ)(か)(にょ)(らい)

 心をこめて、あらゆる徳を具えておられるお釈迦様のおみ足を頂いて礼拝いたします。


(しん)(じん)舎利(しゃり)
本地法(ほんぢほっ)(しん) 法界(ほうかい)塔婆(とうば)

 そしてお釈迦様のお体と同じご遺骨と、お釈迦様をこの世に送り出された、

はるか彼方におられる仏、すなわち大日如来とそのお働きを現世(この世)

に示される五輪塔婆等のすべてに私は敬い礼拝いたします。


(が)(とう)(らい)(きょう)
(い)(が)(げん)(しん) (にゅう)(が)(が)(にゅう) (ぶつ)(か)(じ)(こ) (が)(しょう)(ぼ)(だい)

 すると仏様は私のためにお姿を現して下さり、私の身心の中に流れ込み、私もまた仏の中に溶け込むことが出来ます、そして仏の加護の呼びかけと私の願いとが一つになって私はさとりへの実践が出来るのです。


(い)(ぶつ)(じん)(りき)
(り)(やく)(しゅ)(じょう) (ほつ)(ぼ)(だい)(しん) (しゅう)(ぼ)(さつ)(ぎょう)

 真に仏様の不思議なお力により、迷い苦しむすべての私たち衆生(人々)に大いなるご利益である、さとりを求める心を起こさせて下さり、それに向かっておみちびきをして下さるのです。


(どう)(にゅう)(えん)(じゃく)
(びょう)(どう)(たい)(ち) (こん)(しょう)(ちょう)(らい)

 そのおみちびきによって、私達一切衆生が完全なやすらぎ(大安心)涅槃に入ることが出来、一切分けへだてなく行きわたる本来の智慧といつくしみ(慈悲)の心を、私の心身に実現できることに、心からよろこびと感謝の念をこめて仏様を礼拝いたします。


大本山護国寺貫首 岡本永司

「命(いのち)五命」

平成23年7月31日(日)

「命(いのち)五命」

命(いのち)は命令の命と書きます。令は人の集っている場所の下に王様が号令をかける時に用いる玉座がある形を表しており、布告とか法令をいっております。それが「口」がついて命となり、号令をかけるとか命令するという本来の意味になります。それが何故私達の「いのち」を表す文字になったのでしょうか。中国の文献によると私達のいのちに五つの条件があるとしております。即ち「五命」(ごみょう)という考えで五つの命令を受けて私達のいのちがあるので命(めい)を「いのち」という意味につかっているのであります。その基本になるものは先ず何か不思議な大自然の力を「天」といい、その天の命即ち「天命」によって私達は此の世に生れて来たのだとしております。それによって人間として生きるのだぞと命じられておるのでこれを「生命」と申しております。そして中国ではいのちは寿で表しその長さも命令されていると考えてこれを「寿命」と申しております。また私達がそれぞれの人生を歩む上で好き勝手に思うがままに歩みたいけれどもある程度はその歩み方も命令されていると考えこれを「運命」としております。私達は生れようと思って此の世に生れて来たのではなく天の命令を受けて生れて来た以上、その天の命を正しく使いなさいという命令を受けておりこれを「使命」といいます。此の世に生を受けたからには意味のない人生は一人もいない。それに気付くか否かが他の動物と違うことであると言っております。
大本山護国寺貫首 岡本永司 

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「五色光印・五色放光印」

平成23年7月24日(日)

「五色光印・五色放光印」

 

右手の五本の指を立て外へ向ける型を真言宗では五色光印と申し立派な印契であり、光明真言を誦する時に結ぶ印であります。そしてこの五本の指それぞれ五つの色と五種類の修法の種別が決められております。
即ち指の五大を表す時は小指から順に地・水・火・空・風であり配色は小指から黄・白・赤・黒・青の順となっております。
これを修法の種別に配しますと小指から順に増益・息災・敬愛・調伏・鉤召の五種になります。何故小指が黄色で増益法(ご利益を増す法)であるかというと大地は万物を生み育て多くのいのちのみなもとであるということ。そして黄色は米や麦や果実のみのりの色であり、増益法となります。
次に薬指ですがこれが白色で息災法となるのは、水は凡てのいのちのみなもとであり、自性清浄を意味する無色透明であることを白にたとえております。
中指は赤色で敬愛法をあらわしますが、敬愛とは異性間の愛情好悪、情熱を意味する灼熱の赤色であります。
次に人差し指が調伏法(難調の者を正しく導く法)で黒色かというと暴風強風が物を破壊する威力にたとえ、その威力は黒色が凡てを消すように凄まじいものであることを表しております。
そして最後に空にあたる親指は青色であり、鉤召法であります。鉤召法はとにかく自分に背きそっぽを向いている人を自分の方に引き寄せることと俗解されておりますが、本来は地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しむ衆生を法の力によって楽の世界即ち天に引き上げることです。天とは空であり青色であるということであります。
以上のように五色光印(五色放光印)は私達の様々な願いとその成就を光明真言を誦する時に用いることによって菩薩の御加護を頂かんとする大切な法印であります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

光明真言 読誦の功徳

平成23年7月17日(日)

  光明真言 読誦の功徳

 

オン       帰命、帰依、供養の意でその真言を唱ふる時は、一切の諸佛に供物を捧げることになる。

 

アボキャ     現世の願望が成就し未来の成佛も達成されるの義。北方成所作智不空成就佛の光明で釈迦如来。

 

ベイロシャノウ  中央本地法界体性智で真理の本体大日如来。

 

マカボダラ    東方大円鏡智阿閦如来にして薬師如来と同体なり。

即ちこの真言を唱えるものは、諸病を治すの義。

 

マニ      この真言は如意宝珠の義で、いわゆる宝珠より一切の宝を雨ふらして世間、出世間の願望を成就せしむる義で南方平等性智宝生如来なり。

 

ハンドマ     西方妙観察智阿弥陀如来にしてこの真言を唱える人は極楽往生するはこの句あるがゆえなり。

 

ジンバラ     光明の義で一切の諸佛菩薩諸天諸印の光明がこの句に含まれている。

 

ハラバリタヤ   転易の意で五智如来の光明に照らされて災い転じて福となり、悪業転じて善業、短命転じて長命ならしむ不思議な力を含んでいる。

 

ウン       成就の義にしてこの光明真言の功徳によって諸願が成就すること疑いないものである。

 
大本山護国寺貫首 岡本永司

「自 然 体」

平成23年7月3日(日)

「自 然 体」

http://www.youtube.com/watch?v=tn43i-yAU-o 

 

スポーツの選手や碁将棋の棋士などが大事な試合に際して自然体で臨むとか、自然体で行きますなどと使います。
自然とは辞典などにはありのままの状態。天性、本性等々出ております。
柔道の構えの一つに、体のどこにも力を入れずに、ごく自然に立っている状態などを申しております。では本来の自然体とは如何なることをいっておるのでしょうか。禅の書に「至道は無難なり、唯
棟択を嫌う云々」とあり、つまり「さとりへの大道に進むのは難しいことではない、唯えりごのみをしないことだ、自分の感情で相手を見さえしなければ、みな自然であたりまえのことなのだ」という意味の言葉であります。
力みかえって自分の好き嫌い、是非善悪の心を表に出して物事を判断すると、世の中がせまく、暗いものになってしまい本物が見えなくなってしまいます。自分の物差、自分の迷い辺見を払拭してそのままの相手を見ることが出来れば、自分本来の力を発揮することが出来るということで、自然体とは自己心を自然にあるがままの自分にすることであります。
浄土宗を開かれた法然上人は、このあるがままの自分を大切に考えられ、お名を法爾自然の語からとったといわれております。
小さな人間のはからいは、大きな仏のはからいをさまたげます。
自分の主張、判断にとられて自己主張するあまり、全体が見えず様々なトラブルになることはよく見られることであります。
大いなる仏様の物差を想いそこに自分をあずけた時、自分の救いとなり本来の力が自然に出て、事が成就することにつながるのであると思います。

大本山護国寺貫首 岡本永司

 

「義理・人情」

平成23年6月26日(日)

「義理・人情」

 
http://www.youtube.com/watch?v=qEfu7RQML98

 

この頃は義理も人情もない時代といわれております。義理がすたれ、人情がうすくなれば世の中は渡りづらくなりますし、また義理・人情の板ばさみになってもまた苦しいものであります。
この義理ですが、本来は物事の道理、正しい筋道をいう言葉で、経典はしたがってこの義理を説いたものであると言えます。義理は人の踏み従うべき道といえますが、それが様々な人間関係で人が他人に行わねばならないことを指すようになり、更にいやでもしなければならないことを「お義理」というようにさえなりました。
一方人情は本来人間的な心の迷いをいっており、世間的なものに囚われる人間的な思慮分別の迷いを言ったものであります。それが「人間味、人間らしい」と意味が変わり、いつか人情はよい意味に用いられるようになりました。人情味のある人は良い人、人情に厚い土地は住みよいところと受取られるようになりました。
このように言葉は生きものですから、いつか正反対の意味になったりすることが多いようです。いずれにしても私達は義理を見極め、人情のいかなるものかを知って迷いの生活を送ることのないようにしたいものであります。
夏目漱石は草枕の中で、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」といっておりますが、智情意も、義理人情もほどよくあるのが最もよいといえます。まずは自分の心を調整して、ほどよいものとするよう管理していくことが大切なようであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「もったいない」

平成23年6月12日(日)

もったいない

http://www.youtube.com/watch?v=SmiS_bQixzw


もったい(勿体・物体)

  物の本体の意

  重々しいさま

③尊大なさま

もったいぶるーことさらに重々しい態度をとる

 

もったいない(勿体無い)

  物の本体を失すること

  神仏貴人に対して不届なこと

  過分のことで畏れ多い

  かたじけない、ありがたい

⑤物の値打ちが生かされず無駄になって惜しいこと

 

本来は仏教語で凡ての物が現在ある形は無数無量の因縁によって形づくられているのであって、唯単に偶然出来上がったものでは無いことを考えて、そのいのち、その働きを充分に生かすことが大切なことであるということであるということである。(引き寄せて結べは柴のいおりなり、解くれば元の野原なりけり)

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「ご馳走さま」

平成23年6月5日(日)



 

「ご馳走さま」というと、今では食事のときの言葉のように思われますが、本来はどうしてそのようになったか不思議です。馳走とは文字通り車馬をはやく走らせるとか、年月は馬が早く走るように過ぎ去って行くというような意味であり、古文書などでは一般にそのように使われて来ております。それが食事を出したり人をもてなすように使われたのは我国だけのようであります。もちろん食事を用意する為にはあちこちから材料(食材)を集めたり、煮炊の用意をし料理するためにかけまわることから食事などのもてなしをするように使われるようになったと考えられます。その裏には日本人の物に対する豊かな感性がうかがわれます。僧侶が修行中食事の折に五観の偈という句を読んで食事をいただきます。その第一に「功の多少を計り彼の来処を量る」という句があります。この句は「多くのおかげを思い、感謝してこの食事をいただきます。」ということでこの心が即ち「ご馳走さま」の心であります。ご馳走さまばかりではなく、お世話さま、御苦労さまなど、私達は日常挨拶などで使いますが、その多くが相手の立場に立ってその労をねぎらい、感謝する言葉であり、日本語の一番美しいことばといわれる「ありがとう」と同じように美しい言葉と申せます。自分が周囲の人々からばかりでなく自然界すべてのものの力によって支えられて生きていることに感謝せずにはおられない、深い智慧をこの言葉は豊かに表しておるものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「六根清浄」

平成23年5月22日(日)

「六
浄」
 

 

六根とは私たちが生まれながらにそなわっている目・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のことを申しております。よく物を持ち上げたり、立ち上がる時に「どっこいしょ」と言いますが、この六根清浄がつまったものといわれております。

私たちは心があり、その心に従って考えたり、行動をしております。外界の様々な事物や現象を観察し、判断し自らの内に受入れております。その諸々の事や物、現象を受止め受入れる器官を仏教では「
」の五感覚器官とそれをまとめて受入れる器官を「意」と申しており、前の五感に対し「意」を第六感と言っております。これ等はそれぞれ外界の事物を取入れる場合の根幹となるので此の六器官を六根と称します。

此の六根の根幹即ち根本が汚れていたり、荒れていたり、こわれていたのでは、事物、現象の凡てを受取り、受入れることが出来ませんことは申すまでもありません。
従って私たちは常に自分にそなわっている六根を正常に保ち、清らかにしておくよう心がけねばならぬということになります。

六根が清浄であれば美しい物が見えたり、きれいな音を聞くことが出来、よい香りを知り、よい味がわかり、事物を正しく判断することが出来るのであります。
高い山に登る人達が昔は「六根清浄」の掛声をかけながら登ったと云われますが、これも危険な場所に行くときは、自らの六根を正常にし冷静な判断をすることで事故防止をするという行為であります。私たちは日常の生活に於いても常に六根清浄を心がけて過して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「我慢・頑張る」

平成23年5月15日(日)

「我慢・頑張る」


http://www.youtube.com/watch?v=lLED3-yp2Xw

 言葉は生きていると申しますが、仏教語は特に長く使われている内に本来とはまるっきり逆の意味に転じて使われる場合が多々あります。貴様や無学、無分別などが一般的に悪い意味になってしまいました。

これとは逆に良い意味に使われるようになった言葉に我慢、頑張るがあります。「ここは我慢のしどころだ」などと言っている内に、いつの間にか我慢とは耐えること、こらえること即ち辛抱や忍耐と同義語のように使われるようになってしまいました。しかし、我慢とは本来はあってはならないことで、人間の迷いのもとである貪瞋痴慢の四大煩悩の一つなのであります。

慢はマーナの音写語で思いあがりのことです。この慢は分類すると慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢の七慢になり、その内四番目の我慢とは自己の中心に我があると考え、その我を頼んで他をさげすむ心のことであります。そしてこの我が強ければ我を張って自分の説や生き方を押し通すことになります。

即ち頑強にして屈しないところから頑張るという言葉が出来たようであり我慢強くて頑張る人とはもともとは、他の人の言葉や行いに耳を貸さない救いようのない人のことでありました。ところが今日では大変立派な人のように使われてしまっております。本来は我慢という思いあがりを抑え頑張ることは、我を張らずに本物を見極めるよう努力することでなくてはならぬことです。

私達の心の中には常にこの思い上がりの慢があります。言葉本来の意味をしっかりと確かめて参りたいものであります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

「四 天 王」

平成23年5月8日(日)


「四 王」

 
 
http://www.youtube.com/watch?v=9GT6bOuZgVo

 私たちはよく、ある集団や分野で特に能力や才芸にすぐれた人が二人いた場合には「あの二人は両横綱だ」とか、もし三人いた場合には「何々の三羽烏」などと申し、それが四人の場合には「四天王」といっております。此の四天王は仏教語であります。仏教の世界観では私たちの住むこの世界は須弥山という山の中にあり、此の山の中腹には四天王天という天部の世界があり、その天部の東西南北の四方にそれぞれ一人ずつの天主がおられて此の世界を守っていてくれているのであるとしております。東方には持国天、南方には増長天、西方には広目天、北方には多聞天がおられて私たちを守護してくださっておるのであります。特に多聞天は別名を毘沙門天とも云い、皆様ご承知の七福神のお一人としても親しまれておる天であられ、北の方、即ち上位から大切なものを背後から守護するという役目を持っているところから、戦国時代上杉謙信公は都の北を守るとして毘沙門信仰があつく、毘を旗じるしとして戦ったことはよく知られているところであります。この四天王はいづれも印度古来よりの武神で、それが仏法に取入れられ仏法と仏法帰依の人たちを守る強力な願いをもっておられるのであります。寺院の本尊様のまつられているところが須弥山を形取って須弥壇とし、その四方に四天王が本尊様を守って安置されております。自衛隊や警察官に守られて私たち国民の生活が安全に守られているように、四天王は仏教徒の私たちを日々守ってくれることに感謝し帰依して参りましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「八風吹不動天空月(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


平成23年5月1日(日)

「八風吹不動天空月
(はっぷう吹けども動ぜず天空の月)」


http://www.youtube.com/watch?v=UVSxaDHIUNI


八風とは私共の心や身体に常に大きな影響をもたらす次の八つの状態を申します。

 

一、(り)役に立つ、都合がいい、すぐれている、もうける、とくをする。

二、(すい)おとろえる、駄目になる、老化、疲労、失う、損をする。

三、(き)こわれる、破れる、悪口をいわれる、けなされる。

四、(よ)ほまれ、名誉、名聲。

五、(しょう)ほめる、たたえる、称讃。

六、(き)とがめる、そしる、陰口をいわれる、ないがしろにする。

七、(く)苦痛、困難、悲しみ、いじめる、思うようにならない。

八、(らく)たのしみ、よろこび、やすらか、満足。

 

私共は、日々の生活の中でこの八つのどれかに振り廻されて喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりしております。これを私共の心をかき乱す八つの迷いの風、悪風としております。しかしどんな風が吹こうが確固不動の信念があれば何も恐れることは無いということであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「他山の石」

平成23年4月17日(日)

「他山の石」

http://www.youtube.com/watch?v=Xa7uCu5wTXQ 

 詩経に「他山の石をもって玉を攻むべし」とあります。
この「攻むべし」というのは「磨き上げなさい」ということで、よその山で取れた石でも、玉を磨く時の砥石にしなさいということを申しております。

現在よく云われている「他山の石」と同じことで他の人の言動でも自分の言動の参考にすることが出来るという意味になります。華厳経という仏典に有名な善財童子の物語が出ております。

童子(青年)が悟りを求める旅の中で五十三人のさまざまな職業の人達を訪ねて行くということで、ここから東海道五十三次の宿場が出来たもとになっているといわれております。

善財童子は歴訪する凡ての人々からいろいろな教えや有り方を学びました。
即ち海で魚をとる仕事の漁師を訪ねては海の不思議な力や姿から得た教えを開き、人の病気を看る医者からは人の生命の不思議や身体のこと、そして患者に対する慈悲の心を学び、長者(有徳な人)からは、凡ゆる人や物は皆それなりの価値を有していることを教えられ、また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして働く農家の人にあっては自然の働きの偉大さや物をつくる苦労を教えられました。

このように童子はその気になり心さえあれば、目の見えるところ、耳のきこえるところ、いたるところにそれぞれすばらしい世界のあることを知り、やさしい心の人に会っては、ものに従う心の智慧をさとり、それを自分の求道に活かすことが出来たということであります。

私たちはどうも他の人の言っていることや、行っていることをあまり自分の為の参考にしない傾向があります。華厳経は善財童子の物語をかりて、だれにもある長所を取入れそれを自分の生き方の中に採り入れ、すばらしい人生を展開すべきことを説いておるのであります。
 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「初 心」

平成23年4月10日

「初 心」


http://www.youtube.com/watch?v=I5NPAOkGqEI
 

私たちはよく「初心にかえって」とか「初心忘れるべからず」とか自動車免許とりたての人は初心者マークの札をつけて車の運転をしております。
この初心というのは未だ習い始めて不なれであり未熟であるということと物事を始めた時の純粋で謙虚な気持というように二通りに使われたり考えられたりしております。
しかしこの二通りは実は一つのことで私たちが直面する
凡てのことにあてはまることであります。そして初心とは大切な仏教語でもあります。
即ち初発心のことで発心とは発菩提心の略であります。仏の教えを習い実践して行こうと初めて発した心ということであります。従って入りたてでまことに未熟であるが純粋で一生懸命に仏道を志す心が初心の本来の意味になります。

この初心が一般に使われるようになったのは仏教に源を持つ能楽を大成された世阿弥がその能楽論書「花鏡」の中で「是非の初心忘るべからず時々の初心忘るべからず老後の初心忘るべからず」の句を残されそこから初心の句が使われるようになったようであります。
世阿弥は能を習いはじめた時の芸に対する心を忘れてはならぬと戒めたのですがそこから何事に於ても最初の心持、真剣さそして目的を忘れてはならぬということになりました。私たちはややもすると初めの内は真剣に心をつくしますがしばらくすると油断しがちであります。即ち初心忘れがちになり失敗することになりがちです。

私たち仏教徒は本来の初心の意味をしっかりと受止め菩提の心をおこし、仏道を歩んで参りたいと念じております。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「苦について」

平成23年3月27日(日)

「苦について」

http://www.youtube.com/watch?v=SJGV2Jtl8AU

http://www.youtube.com/watch?
v=Nt42Rg2a2PU&feature=related 

 

苦という字は音読では「く」訓読では「にがい」と読まれます。苦によって表現される言葉を音読では苦心、苦労、苦痛、苦行、貧苦などがあり訓読では苦手、苦味、苦虫などと使われております。

このような苦という意味を辞典では損悩逼迫の儀とか身心を逼迫して不快なる状態などと出ております。即ち精神面、物質面にわたって私達人間に及ぼす苦痛や悩みをいい、人生に於ける様々な障害や不快な状態を申しております。私達が生活して行く上でこうした苦しみ悩み悲しみなど思うようにならないことが次々に生じて来ることは皆様ご承知の通り避けられない現象であります。

この事を御釈迦様は「人生は苦なり」と申され、仏教の根本思想を表す一つとして「一切皆苦」と説いております。仏教は何故私達はこうした「苦」を受けなければならないのか、その理由や根拠を問いつめ更にそこから脱れる道を説き自らにふりかかる避けられない苦を尊い経験としてそれを土台として人生を強く生きて行くすべを示しております。この苦について経典では
内苦(自分の身心より起きる苦)
外苦(外界からの作用によって起きる苦)
苦苦(不快なものから受ける苦)
壊苦(好きなものがこわれて行く苦)
行苦(万物が変るのを見て起きる苦)
その他人間として生きて行く上に必然的に起きる生・老・病・死などがこまかく説かれております。

以上私達が経験する苦は内面より起きるもの、外界より起きるものとの二つに大別されますが、いずれにしても私達人間は苦即ち思うようにならないことの多い存在であることをしっかりと認め、その上に立って心のあり方、日々の生き方を定めて参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「お彼岸にちなんで」

 平成23年3月20日(日)

「お彼岸にちなんで」

http://www.youtube.com/watch?v=SJGV2Jtl8AU

 
http://www.youtube.com/watch?v=eehxmd96KGM&feature=related 

 

彼岸会(ひがんえ) (波羅密多)パーラーミータ

(とう)彼岸(ひがん) (向こう岸に渡る)安らぎの世界即ち浄土(悟りの世界)(完成)

(し)(がん) (娑婆)迷いと苦しみの多い私たちの生きている世界

三途(さんず)(かわ) 貪・瞋・痴の三毒に流されて、なかなか浄土に到達できない

浄土に至る実践行を六項目に示している。これを六波羅蜜(ろくはらみつ)という

 

六波羅蜜(六度行)

布施(ふせ) 欲張らないこと そうすると人に信用されるようになる

持戒(じかい) 約束を守ること そうすると人に信用されるようになる

忍辱(にんにく) 怒らないこと そうすると人と争わなくなる

精進(しょうじん)怠けないこと そうすると仕事が進みはかどる

禅定(ぜんじょう)気を散らさないこと そうすると心が落ち着く

智慧(ちえ) よく考えること そうすると物事がよくわかってくる

 

お彼岸の七日間はなくなられたご先祖様に感謝すると共に、この六つの事を守りますとお誓いする、春秋の「生活のくぎり」の期間であり、私たちの日常生活への反省と努力をすることであります。


大本山護国寺貫首 岡本永司

関東東北大震災物故者慰霊法要

平成23年3月13日(日)

平成23年東北地方太平洋沖地震慰霊法要

 
http://www.youtube.com/watch?v=68bdJ-H0SBw&feature=youtu.be

「独鈷・三鈷・五鈷」

平成23年3月6日(日)

「独鈷・三鈷・五鈷」

http://www.youtube.com/watch?v=bCQr8wRf12E&feature=youtu.be&a



皆様御承知かと思いますが、水前寺清子さんの唄に「いっぽんどっこの唄」というのがあります。この「いっぽんどっこ」とは実は仏教の言葉であります。漢字に書くと独鈷となります。これはインドの神インドラ神の武器でヴァジラ(鈷)であって怨敵を征伐し悪魔を払う道具であります。これが仏教に取入れられてからは護身の道具であり、又煩悩を打ち砕く法具とされました。特に密教では大日如来の真如法界を表すものであると共に、煩悩をはらってまっすぐに進むという教を現すものとされております。鈷は主として金属で作られており、握りの両端に一つずつ瓜のあるものを独鈷といい、三つ瓜があるのを三鈷、五つあるのを五鈷と申して特に真言密教では前述のように身を護ると共に自らの煩悩を打破りおさとりへの道を開く大切な法具となっております。言い伝えではかつて弘法大師が唐に渡り真言密教を伝授され、日本に帰る途中の船の中よりこの三つの法器を我国に向って投げられその内独鈷は室戸岬にとまり、三鈷は高野山にとまり、五鈷は京都にとまったということで現在それぞれの所に青龍寺(豊山派)高野には金剛峰寺、京都には教王護国寺(東寺)の三ヶ寺が弘法大師の開基の寺として建てられております。その他弘法大師は常にこの鈷を所持されて各地に弘法の井戸や弘法の湯(トッコの井戸、トッコの湯)などもこの独鈷で堀あてられたといわれております。そうした霊験ある独鈷を私たちは心の中に持つ心構えと共に大日如来初め諸仏菩薩に護られながら、自らの道をきりひらいて参りたいものであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「機嫌・譏嫌」

平成23年2月27日(日)

「機嫌・
譏嫌」



http://www.youtube.com/watch?v=HPlRxH_odvU


上機嫌とか御機嫌伺いなどと私たちは日常使っております。
辞典には気持とか顔色などと出ておりますが、この機嫌は本来は譏嫌と書くのが本字であります。議とはそしること、嫌はきらうことで、そりきらうことを申しております。
仏教の戒律の中に譏嫌戒という戒律があります。これは他人から譏嫌されないための戒のことで僧尼のたしなみとしての戒であります。

一例として、にら、にんにく、らっきょう、しょうが等の強い臭いのする野菜は別にそれを食べたからといって悪いわけではなくて、又お酒を飲んでも罪になることではありません。
しかしこれ等を食べたり飲んだりしたことで人に嫌われるもとになることがあるかも知れないということで、これ等を口にしてはならないという戒が定められました。
禅寺の山門脇に「不許葷酒入山門」と書かれた札などがかかっておることがあります。
葷とは前述のような臭い野菜のこと、酒は御承知のことで、これ等を口にした者は寺の中に入ってはならぬということで、寺の中では人様から譏嫌されないように身だしなみに心を配れとの、おくゆかしい配慮が示されております。
そのことから自分の接する相手の気分の善し悪しをも言うようになり、更に広く相手の事情などをさすことになったのであります。ところで「正法眼蔵」に「時は人の譏嫌をかえりみず」とあります。
自然の移り変り、日時の経過は人の譏嫌などに気を使ってくれません。私たちはそうした事を心に置いて自らを正し、仏道を実践して参ることにいたしましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「義理・人情」

平成23年2月20日(日)

「義理・人情」


http://www.youtube.com/watch?v=ifRLeliZWCM

この頃は義理も人情もない時代といわれております。義理がすたれ、人情がうすくなれば世の中は渡りづらくなりますし、また義理・人情の板ばさみになってもまた苦しいものであります。

この義理ですが、本来は物事の道理、正しい筋道をいう言葉で、経典はしたがってこの義理を説いたものであると言えます。

義理は人の踏み従うべき道といえますが、それが様々な人間関係で人が他人に行わねばならないことを指すようになり、更にいやでもしなければならないことを「お義理」というようにさえなりました。

一方人情は本来人間的な心の迷いをいっており、世間的なものに囚われる人間的な思慮分別の迷いを言ったものであります。それが「人間味、人間らしい」と意味が変わり、いつか人情はよい意味に用いられるようになりました。人情味のある人は良い人、人情に厚い土地は住みよいところと受取られるようになりました。
このように言葉は生きものですから、いつか正反対の意味になったりすることが多いようです。

いずれにしても私達は義理を見極め、人情のいかなるものかを知って迷いの生活を送ることのないようにしたいものであります。
夏目漱石は草枕の中で、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」といっておりますが、智情意も、義理人情もほどよくあるのが最もよいといえます。

まずは自分の心を調整して、ほどよいものとするよう管理していくことが大切なようであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

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