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御前様こと大本山護国寺第五十三世貫首 岡本永司大僧正台下を慕う有志が、御前様の許可を得て作成しているブログです。

日曜法話

「両舌・二枚舌」

平成22年2月13日(日)

「両舌・二枚舌」


http://www.youtube.com/watch?v=94wkpxAF8Pk


 仏教の十のいましめ即ち十善戒の中に不両舌という戒が示されています。いわゆる二枚舌を使ってはいけないということであります。

 此の事について仏教説話の中で面白い話がのっております。昔インドの山奥で獅子(ライオン)と虎が仲良く暮らしておりました。それぞれ住みかは違っていても、食物は常に一緒に分けあって食べておりました。そこへある時やせ細った山犬がやって来て、どうか自分も仲間に入れてくれるように頼んだのです。

ライオンと虎はその申入れを受入れることにしました。ライオンと虎のおかげで山犬はいろいろな肉を腹一杯食べられるようになりました。
 ところが最初の内は山犬は大変感謝をしていたのですが、ある時こんな事を考えました。「毎日おこぼれで食べる肉はもうあきあきした。今度はライオンや虎の肉を食べてみたいものである」そこで悪知恵を働かせてライオンと虎を喧嘩させて相打ちにさせ倒れたところで両方の肉をいただこうと考えつきました。
 そして山犬はライオンと虎の両方の所に行ってそれぞれに互いに相手の悪口をいっていると伝えました。ところが一向に両者が争う気配がありません。ライオンと虎は互いに信じ合っているので、そんな山犬の嘘をはじめから見破っていたのです。山犬は仲間から追出され、もとのあわれな姿になってしまいました。

 このように人の仲を裂く言葉を言ったり告口をしたりすることをバイシュニャと言い、両舌と漢訳されこれを俗に二枚舌と申しております。
 私たちは勿論二枚舌を使うことなく、又人の二枚舌に迷わされることなく、真実を見きわめる智慧をみがいて参りましょう。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「南無」

平成23年2月6日(日曜日)

「南 無」


http://www.youtube.com/watch?v=K7s0Ma0DTNA&feature=youtu.be&a


私たちは仏様や祖師を拝む時に「南無阿弥陀仏」とか「南無大師遍照金剛」とお唱えいたします。

 ある方より何故はじめに「南か無い」とつけて仏教を拝むのですかとのおたずねがございました。たしかに考えてみるとおかしなことと思われるのは当然のことであります。

 実は南無と申すのは梵語のナマスの音写語で本来の意味は敬うとか、自らの身命をあずける相手を尊敬することであり、それが中国に入って当て字で南無となったので、この字そのものには意味がありません。経典中にも多くこの言葉は出て参りますが、仏・法・僧の三宝や神仏に自分の身命をあずける「帰命」や心より敬い礼拝致しますということであります。平たく申せば南無と唱えるのは「神仏にすべておまかせいたしますので何卒お守り下さい」ということになると思います。

 仏教では天地・宇宙の働き大自然の働きを仏の姿としてとらえております。その大きな仏菩薩に凡ておまかせすることで諸々の苦が静まり静かな心が生じて来ることになります。

 昔話にある人が高徳の僧に地獄や極楽は何処にあるのかと訪ねたところその僧は南にあるよう答えられたそうです。つまり南の方向にどんどん進んで行くと地球を一回りして自分に帰る即ち皆身、自分に到着するということで自分自身の心の中にこそ地獄も極楽もあるということを申されておるのであります。

 私たちは心をこめて南無の本来の意味をかみしめて日々を過して参りたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「一念発起・一味・醍醐味」

平成23年1月30日(日)

「一念発起・一味・醍醐味」

http://www.youtube.com/watch?v=cf_LDds3vKI


一念発起(いちねんほっき)

「一念発起して何々をはじめた」などと使い、一般的には新しい何かをやろうとすることを表現していますが、本来は立派な仏教語であります。
一念とはきわめて短い時間をいい、発起とは発起菩提心の略であります。つまり仏の教えを聞いている内に、ひらめきを得て一瞬の内に菩提心をおこすこと、菩提心とはさとりを求め、仏道を行なおうとする心のことで、大乗仏教ではさらに人の為、世の為に尽そうとする願いが付加して考えられております。
南禅寺の周信禅師は「一年の計は殻を植ゆるにあり、十年の計は樹を植ゆるにあり、百年の計は徳を植ゆるにあり、人の最も植ゆるべきは徳なり」という言葉を残されております。

 

一味(いちみ)醍醐味(だいごみ)

一味というと今日では「泥棒の一味」などと悪い方にしか使われておりませんが、本来は仏教的に深い意味のある言葉です。
一味とは海の水がどこも同じ味であることから真実絶対の立場で見ればすべてが平等であるということ、そして仏教という大海ではその教えが時や人に応じて多種多様であっても皆同じであることをいっております。
醍醐味とは仏法を乳製品にたとえてインドでは牛乳を精製する過程で五味の内最高の製品をいい、仏法をそれにたとえていっています。
 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「言 語 道 断」

平成23年1月23日(日)

「言 語 道 断」

http://www.youtube.com/watch?v=CmQ9A63MfpY


現在ではこの言葉は「もってのほかだ」とか「とんでもないことだ」とか言って大きな過ちを非難する時などに使われております。しかし本来は文字通り言葉や言語などで表現する道が断たれることで言語では表現出来ない深遠な真理を申しておるのであり道は口で言うことの意であります。


この言語で表現し得ぬものの代表はおさとりのことで仏説華手経に「出世間の法は即ち無言説にして言語道断・心行不滅」とあり法華経には「諸法は空であり一切語言の道断へ」と出ております。又、言語道断の厳儀と言えばあまりに立派なことで言葉では表現出来ぬ程であるということであります。

これがあまり悪くて何とも言いようがないというような意味で使われているのは何とも残念なことであります。言葉は時代によってさまざまに変った意味にとらえられたり、人によって使い方が異なることもあるので宇宙の真理を見極めんとすると言語では伝えきれないということになります。
いくら氷はつめたいものであると口で説明しても水を知らぬ者にはわかりません。実際に手にふれさせてはじめて水のつめたさがわかるということであります。
道元禅師は不立文字、言語道断と申しながら「言語道断とは一切の言語をいう」として言語を生かして使うことを説いておられます。私たちは言葉、言語の大切さを知って人の言葉を聞き自らも使って参りたいものであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

「サラサラ・サンサーラ」

平成23年1月16日(日)

http://www.youtube.com/watch?v=d5d5YWX7y98&feature=youtu.be&a


サラサラ・サンサーラ

「春の小川はさらさら流る」という童謡があります。また最近は「血液サラサラ」などと薬の広告などに使われております。
この「さらさら」「サラサラ」の意味を辞書で見ますと「水などが浅い所をよどみなく流れるさま」とか「物事がつかえずにはかどるさま」「物に粘り気や湿り気がないさま」などと出ております。

梵語に物事の流れを示すサンサーラという言葉があります。このサンサーラは輪廻とか流転と訳され、生あるものが生死を繰り返すことを申しております。
仏教では迷いの世界に生死を繰り返す私達のこの世界のことをさしますが、サンサーラとサラサラは何か似ているような意味があるように思われます。

私達の体は血液がサラサラ流れずに滞れば病気になり止れば死んでしまいます。そして水や血液ばかりではなく宇宙の凡ての自然現象や物事はサンサーラしていると申せます。
サラサラ流れていないと成り立たないものばかりであるといえます。この事を歌った歌に「岩もあり木の根もあるサラサラとただサラサラと水の流るる」というのがあります。自然現象や体の状態ばかりではなく、私達の心や気持ちも何か執着し、とらわれてしまうとそこに止まっていつまでたっても流れることが出来ず様々なトラブルが起きるもとになることはご承知の通りであります。

日々の生活の中で血液サラサラで健康であるように気を付けると共に心も気持ちもサラサラ・サンサーラして正しく輪廻して参りますよう心掛けたいものであります。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「不思議」な話

平成23年1月9日(日)

本日は平成23年になり初めての「朝マイルの会」でしたので、張り切ってgozennsamaのお話を撮影したのですが、ビデオカメラのメモリーがいっぱいになっていたのを気づかずに録画をしていて、途中でビデオが止まってしまい最後まで映像を収めることができませんでした。

おつとめ後のお茶の時間に録画を確認しつつ過去の不要な映像を消去していたら、消したつもりはないのですが本日撮影した映像まで消してしまったようです。きちんと操作したつもりなのですが消えてしまいました。

そんな訳で、本日は映像はありません。プリントだけでお赦しください。
ですが、今日のgozennsamaの「不思議」な話しは過去に何度かお話されている内容でしたね。修養会の方でしたら既に何度か聞いたことがあると思います。

gozennsamaのお話しのなかでも私はこの「不思議」なお話しは大好きなので朝マイルの皆様にもお伝えしたかったのですが、またいつかの機会を楽しみにしていて下さいね。

お詫びに、先日川崎大師へgozensamaと初詣に行って参りました。その時の映像を限定公開いたしましたので。どうぞ皆様、ご一緒にバーチャル詣でをお楽しみ下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=juM2gnR7cdk



「不 思 議」
不思議とは不可思議の略で考えや思いの領域を越え計り知ることの出来ないことを申します。又、数取りの上で百、千、万、億、兆、京と数えていって最大最後の数取を不可思議とし、下に数えていって最後の数取が「清浄」といわれております。

いずれにしても私達をとりまく様々な出来ごとでも不思議なことが数限りなく満ちていることがわかります。

人と人との出会い、夫婦、親子の縁をとって見ても、思慮や言葉に言い表すことの出来ない縁によるものであることが思い当たります。ましてや天地自然の動き、動、植物のいのちの働きなどなど私達の思慮を越えたもの即ち不思議な計らいによるものであり、私達のとうてい思い及ばないことであることがわかります。

不思議とは本来、仏の功徳や智慧の働きを表すために使われた言葉であり、それは思い計ることも言葉に表すことの出来ないものであるということであります。
私達は学んだり、修行をしたりすればする程、自分の至らなさ、おろかさがわかって来ると言われます。
天台宗を開かれた伝教大師は自らを愚の中の極愚と申され、親鸞上人はご自身を愚禿と言われ、良寛上人は大愚の良寛と申されました。
修証義には「仏の功徳は大地、草木、瓦礫にまで至っており私達は最上甚深不可思議な仏の力によって生かされているのである」と説かれております。

私達はこれ等の先徳にならって自らの至らなさ、おろかさを自覚し精進して摩訶不思議な佛の功徳を頂いて参りたいものであります。

 大本山護国寺 貫首 岡本永司

 

「一代守本尊」

平成22年12月26日(日)


http://www.youtube.com/watch?v=kP61c1KYYjY

「一 代 守 本 尊」

  人間一代の守り本尊を定めて帰依することは古来広く行われており、その本尊を選定することは月、日によって三十日秘佛或いは結縁灌頂や霊感を、もって感得した佛菩薩を定める方法がある。

しかし一般的には、千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来の八尊を十二支に配当しその生れ歳によって配される。


子(ね)歳生れの人の守り本尊

千手観音「オン、バザラ、タラマ、キリク」


丑(うし)寅(とら)歳生れの人の守り本尊

虚空蔵菩薩「オン、バザラ、アラタンノウ、オンタラク、ソワカ」


卯(う)歳生れの人の守り本尊 
文殊菩薩
「オン、アラハシャ、ノウ」


辰(たつ)巳(み)歳の人の守り本尊 
普賢菩薩
「オン、サンマヤ、サトバン」


午(うま)歳の人の守り本尊 
勢至菩薩
「オン、サンザン、ザンサク、ソワカ」


未(ひつじ)申(さる)歳の人の守り本尊 
大日如来
「オン、アビラ、ウン、キャン」


酉(とり)歳の人の守り本尊 
不動明王
「ノウマク、サマンダ、バザラダン、カン」


戌(いぬ)亥(い)歳の人の守り本尊 
阿弥陀如来
「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」

かくの如く八尊を十二支に配当しているがその根拠は明確ではない。

大本山護国寺貫首 岡本永司

「誓いの言葉」

お経の後にみんなでお唱えしているのはこの「誓いの言葉」です。

覚えてスラスラ言えるようにくりかえし練習しましょう。

言えるようになったらいつも思い出してね。




誓いの言葉

十善の聖戒を守り
円満なる人格の完成を計りましょう
社会の恩を感謝し
努めて業務に精進いたしましょう
過去を反省し
一日一善を成すことを誓いましょう
右、観世音菩薩の御宝前においてお誓いいたします。

「大日如来のご真言と意味」



http://www.youtube.com/watch?v=zUFTrZgecoE


「大日如来のご真言と意味」

 大日如来は二つの働きを持っておられます。

その一つは理徳(情)の面を示す胎蔵界大日如来でそのご真言は「オン・アビラウンキャン」で梵字の種字(しゅじ)は「ア」(阿)であります。

この真言の大意は「一切の諸尊に通ずる真言」ということで「五字明・五字呪」などとも称され、五字は五大(地・水・火・風・空)の象徴とされこれを唱えればあらゆる望みが叶うという最極深秘の真言であります。種字の「ア」(字)は万物の根源で不生不滅の原理を示しており、あたかも生物の母体が我が子を育成し生命をかけて守る母の慈愛、めぐみの姿にたとえられております。

 

二つめは智徳(智慧)の面を示す金剛界大日如来で真言は「オン・バザラ・ダドバン」で種字は「バン」(鑁)で示されております。真言の大意は「帰依し奉る金剛界の本尊よ」という意味であります。

種字のバンは仏の智慧を清浄な水にたとえて大智水と申し、その智水が私たち一切衆生及び一切萬象の上に潅いで仏心・仏種の芽を成長させる偉大なる働きをされる仏の姿を示しております。

大乗仏教では釈迦如来は我々人間に法を説くために仮に現世に現れた応身仏とされ、その法の本体はビルシャナブツ(大日如来)という法身仏であるとしております。又、大日如来は密教の中心仏であり、両界曼荼羅(りょうがいまんだら)の本尊で梵語では「マハーヴァイローチャナ」(摩訶毘盧遮那)と申しマハーは凡ての面で偉大という意味で、太陽を神格化した「光明遍照の仏」であります。
大本山護国寺貫首 岡本永司

【お知らせ】
日曜あさ9時は護国寺へどうぞ。本堂で観音経を唱え、その後、御前様のお話が聞けますよ。毎週日曜あさ9時、護国寺本堂へ直接おいでください。申し込み不要、参加費は無料­です。護国寺へは東京メトロ有楽町線護国寺駅下車、1番出口をご利用ください。
http://gozensamacom.doorblog.jp/

 


「不動明王」

平成22年12月19日(日)

「不 動 明 王」



http://www.youtube.com/watch?v=o3Zq60i_Oak&feature=player_embedded


一般に「お不動さま」として親しまれておる不動明王は仏様のお内では明王部に属されるお方であり、五大明王の中心的存在であります。

 その一字の種字は「カン」でご真言は儀軌によっていくつかありますが、慈救呪が最も多くとなえられて「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」と申します。
不動明王は梵名は「アチャラナータ」と云い「無動」とも訳され大日如来の使者ともいわれております。

そのお姿は
①身体の色は青黒く
②頭上に蓮華を戴き
③髪を左肩に垂れ
④右手に剣を持ち
⑤左手に羂索を持ち
⑥迦楼羅炎を背負い
⑦磐石に坐すか立つ尊容であります。

このお姿のそれぞれの意味は
①は奴隷にされていたインド先住民の膚の色で不動明王が奴僕の形 を表すことで衆生に対する奉仕を示し
②は頭上の八葉の蓮華は我等をその上に乗せて下さることを表し
③は奴僕の髪型で一本にまとめる真理
④の剣は智慧の剣で、根本煩悩の無明を断ち切ること
⑤は乱れやすい衆生の心を縛り仏の世界に引き入れんとすること
⑥炎がカルラの姿をしているのはこの鳥が悪龍を喰らい尽くすよう に煩悩を焼きつくすこと
⑦は磐石に立ち大禅定の心を示しています。
このように不動明王のお姿には多くの意味と教えが込められております。

先述のご真言の意味は「凡ての金剛(忿怒の仏)に帰依し、ことに最大の暴悪大忿怒の不動尊によって我々の凡ての障害と煩悩を打ち砕き給へ」ということであります。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司

【お知らせ】
日曜あさ9時は護国寺へどうぞ。本堂で観音経を唱え、その後、御前様のお話が聞けますよ。毎週日曜あさ9時、護国寺本堂へ直接おいでください。申し込み不要、参加費は無料­です。護国寺へは東京メトロ有楽町線護国寺駅下車、1番出口をご利用ください。
http://gozensamacom.doorblog.jp/

 

「ここち・いごこち」

平成22年12月12日(日)




「心  地」

私達はよく心地よい鐘の音とか心地よい風が吹いて来たなどと使います。この心地は辞書によると「きもち、かんがえ、気分」などといっております。今年のように猛暑がつづき暑い暑いと汗をかいている時にサッと涼風が吹いて来るとやさしくほっとしていい心地になります。もちろんココチと読みますが住み心地、寝心地などと他の語と合さるとゴコチとなり、音で読むとシンチとかシンヂとなります。

この心地とは一般的には何か事に接した時に起きる心の状態を言っております。しかし仏教的には心そのものを指しております。
私達に本来具わっている本当の心を大地にたとえて申しておるので心次第で善悪その他凡てのものが生じ、育てられることが大地の働きそのものと同じということになります。ただし仏・菩薩の心地は何事があっても動ぜず、ゆるがぬ大地のような強い念力をもって衆生を導いて下さっているのですが、私達の心地は一向に安定せず、相手次第で心地がよくなったりわるくなったりします。
例えば運動をして汗をかいた人には涼風はいい心地であり、ジッとしている人には寒く感じられます。ここで風には何の罪もありません。同じものでもそれを受ける人の心次第で善くも悪くもあります。
とかく自分のあさはかな心地にふりまわされてゆれ動くのが私達の心と申せます。自分の心をしっかりと落着かせふりかえることで案外物事が心地よくなるものであります。

仏教の心地を目標にして、心をきたえることが大切であります。心が豊かであれば善が育ち、喜びが生れ幸せへの道が開けて、いい心地の生涯を送ることが出来ると申せます。

 

大本山護国寺貫首 岡本永司


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